謙信の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)
相模国を拠点に関東支配を目指す後北条氏(以下、単に北条氏)は、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と三国同盟を結んだ。北条氏康は、信濃侵攻を行う北信地域において上杉方と抗争(川中島の戦い)を行っていた武田信玄と連携して北関東に侵攻し、上杉謙信の関東出兵(小田原城の戦い)をも退け、上杉氏との抗争を優位に進めた。 桶狭間の戦いの戦いでの敗北後、弱体化する今川氏を見限った武田氏が永禄11年(1568年)、今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、北条氏は今川氏を支援して武田氏と敵対。翌永禄12年には、上杉氏と和睦して武田氏に対抗した(越相同盟)。武田氏が室町幕府将軍足利義昭とそれを擁立していた織田信長を通じて上杉氏との和睦を図る一方(甲越和与)、北条氏では越相同盟の継続を模索し、元亀元年(1570年)には北条氏康の子息(異説あり)三郎が謙信の養子に迎えられ、謙信の初名を与えられて上杉景虎と名乗り、同盟が強化される。だが、上杉氏と北条氏は関係が悪化し、元亀2年(1571年)10月には北条氏康が死去、その子の北条氏政は武田氏と和睦し、甲相同盟が復活する。しかし、景虎は上杉氏の元に引き続き留まった。 天正6年(1578年)3月9日、上杉謙信は春日山城で「不慮の虫気」(景勝が越後国外の上杉諸将に送った書状の表現)、「卒中」(『上杉年譜』の表現)で、3月13日に死亡した。
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