乱の勃発とは? わかりやすく解説

乱の勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)

御館の乱」の記事における「乱の勃発」の解説

1578(天正6年)、景勝景虎後継争い謙信の死直後から小規模ながら勃発し早くも14日には景虎派と目されていた柿崎晴家景勝方暗殺されと言われる。しかし晴家の死亡時期死因には諸説あり、断定されているわけではない。また一級史料による正確な日付不明であるが、景勝その後いち早く春日山城本丸移ったものと考えられ金蔵兵器接収3月24日付の書状において国内外へ向け後継者となったことを宣言し三の丸立て籠もった景虎攻撃開始する3月中に戦闘起こったかどうかわからないが、この頃景勝書状に「鬱憤を晴らすための戦い」とあり、景勝本丸入りも両派の城内戦の末であった考えられる。 なお、景勝先手打って春日山城土蔵黄金押さえただけでなく、謙信使用していた印判側近右筆などの文書発給機構掌握し謙信時代と同様式印判状5月24日以降奉書印判状6月以降発給しており、これら印判1582年天正10年)頃まで使用された。また、謙信晩年奏者連署者である斎藤朝信新発田長敦竹俣慶綱乱の発生後も引き続き景勝について書状連署し謙信からの継承性担保した。一方景虎発給した書状謙信使用した印判ではなく独自のもの使用する他、文書様式についても謙信よりの継承性がなく、北条氏武田氏等に見られるような奉書印判状発給した4月に入ると、会津蘆名氏家臣小田切盛昭が、本庄秀綱と共に景勝方名綱輔を牽制し、盛昭は16日蘆名盛氏状況報告している。このような睨み合い越後各地続いていたようである。 蘆名氏は、謙信死去した可能性察知する不穏な動き見せて3月末から4月にかけて実際に越後侵入した。これに備えた三条城主・神余親綱が3月28日近在領民から証人徴集したところ、却って景勝叱責上杉憲政仲裁聞き入れなかったため、親綱は5月1日景勝手切れした。これがきっかけとなって謙信時代比べて高圧的で、大名権力の強化目指す景勝姿勢越後国衆の反発招き、いったん諸将承認していた景勝政権否定し景虎を担ぐ派閥形成され広がったのが御館の乱であり、その発生景勝景虎いずれも積極的に仕掛けた戦いではないとの見解もある。道満丸の処遇対する不満を含めて景虎家督継承景勝との戦い決意したようであり、4月30日には下野国由良成繁が、北条氏から景虎への付家老として従ってきた遠山康光宛に、景虎家督を祝う書状送っている。 5月5日には大場上越市)において景勝方景虎方衝突春日山城でも景勝方本丸から景虎方三の丸攻撃始めた同月半ば景虎退去するまで春日山城舞台として交戦状態が続きその間利用して景勝景虎双方とも越後諸将対す工作展開していった。

※この「乱の勃発」の解説は、「御館の乱」の解説の一部です。
「乱の勃発」を含む「御館の乱」の記事については、「御館の乱」の概要を参照ください。

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