乱に至る理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 10:38 UTC 版)
百年戦争後期の1435年にアラスの和約を締結してのち、フランスはイングランドへの反撃を開始した。1436年のパリ奪還を始めイル=ド=フランスの諸都市を制圧した。しかし一方で、これらの戦いの主力であった貴族の私兵や傭兵隊が村落で街道荒らし(ルティエ)と呼ばれる略奪行為を行っており、住民らは当然これに反発し各地で問題となっていた。シャルル7世の側近アルテュール・ド・リッシュモン大元帥は国王と話し合い、1439年11月2日の三部会にて、貴族の徴兵・徴税を禁止し代わって国王が新たに徴兵・徴税すること、部隊の指揮を執る隊長は国王が指名することを勅令で布告した。税金で養われる直属常備軍の編成と王権の強化は、リッシュモンが先年から抱いていた構想であった。 この勅令により既得権益を侵される貴族たちは猛反発し、王太子ルイ(後のルイ11世)を擁立して反乱を起こした。乱に加担したメンバーにはブルボン公シャルル1世、リッシュモンの甥に当たるアランソン公ジャン2世、ジャン・ド・デュノワ、ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ、ヴァンドーム伯ルイなど、シャルル7世の側近や軍事力の中核を担う有力な大貴族が加わっていた。彼らは単純に先の勅令に反対するだけではなく、王権拡大を意図する王となによりリッシュモン元帥の政策と彼個人に反対する派閥でもあった。一方、略奪被害に苦しむ諸都市は王の勅令を支持していた。
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