乱に乗じる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)
司馬衷の時代、291年に起こった楊駿誅殺を皮切りに、八王の乱と呼ばれる皇族同士の大規模な内乱が勃発した。これに呼応して各地でも反乱が勃発し、強盗略奪も横行するようになった。この内乱において劉淵は司馬穎の派閥に属し、徐々に官位を上げていった。この動乱に際して劉淵の従祖父である右賢王劉宣らは、劉淵を大単于に推戴して晋朝からの部族の自立を企んだ。この計画を伝えられた劉淵は、葬儀を理由に故郷に帰ることを求めたが、司馬穎はこれを許さなかった。そのため劉淵は使者を通じて、五部匈奴と宜陽に割拠する諸々の胡族を集結させるよう劉宣に伝えた。 304年7月、司馬穎の専横に不満を抱いた都督幽州諸軍事の王浚・并州刺史の司馬騰らが司馬穎打倒の挙兵を行うと、劉淵は王浚・司馬騰討伐への参加を申し出、北単于・参丞相軍事に任じられて并州へ帰ることを許可された。かくして劉淵は匈奴の根拠地である左国城(現在の山西省呂梁市離石区の北東)に到着して劉宣らと無事に合流を果たし、彼らより上大単于の称号を授かった。そして20日の間に劉淵の下には5万の兵が集結し、こうして晋朝からは事実上独立してしまった。ただし司馬穎と交わした援軍の約束も果たそうと考えており、左於陸王劉宏に精騎五千を与えて司馬穎配下の王粋と合流するよう命じ、共に司馬騰を迎え撃とうとした。だが、到着前に王粋は司馬騰に敗れてしまったので、これを知ると途中で引き返させた。 この時、王浚は配下の将軍祁弘と鮮卑段部の兵を鄴城へ向けて侵攻させ、迎え撃ってきた司馬穎軍を打ち破った。これを恐れた司馬穎は、以前の劉淵の進言を無視し、司馬衷を引き連れて洛陽へ逃走した。司馬穎の敗走を知った劉淵は、右於陸王劉景と左独鹿王劉延年らに歩兵・騎兵2万を与え、鮮卑の討伐と司馬穎救援を命じた。だが、劉宣らはこれに反対して、大業を成すためには鮮卑・烏桓とは協力すべきであり、司馬穎のために彼らと争うのは愚策であると固く諫めたため、劉淵はこの意見を容れて救援を取りやめた。
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