乱による松下村塾への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:11 UTC 版)
この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。
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