子弟教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:08 UTC 版)
嘉永5年(1852年)5月17日,真木保臣が水田に移ると青年たちの間で従学を希望する者が多く現れている。既に理兵衛が8歳以上12歳以下の子供に孝経や四書五経を教えていたが子供の数が増え理兵衛1人では手が回らなくなっていた。 山梔窩塾での教育方針は国家有用の人間に育てることであり,学問をはじめ,作詩,習字,相撲,弓道,剣道など門下生に教えた。まず国史により日本の歴史を教え,春秋左氏伝と新論などを教科書として用いて作文,作詩を勧めた。教授法は文字の意義だけではなく,どのような気持ちで読んでいるかなど反問し懇切丁寧に教えたとされる。門下生のほとんどは正規の武士の身分ではなく,庄屋,村役人,医者,神職であったが,真木保臣の指導のもと志士に成長して維新運動に参加した。 真木保臣と盟約を結んだ者は大鳥居啓太宜臣の長男固太郎,冨安村里正水田喜七の長男謙次,二男太三郎,水田村伯樂(馬医)淵上祐吉の長男祐二郎,二男郁太郎,東北院信淳の五男角大鳥居照三郎,天満宮社人池上主水,常用村里正古賀簡二などであった。 山梔窩がある筑後市水田では水田天満宮主催の「笠着連歌会」が年1回開催されていた。山梔窩塾生も漢詩学習の一環として百詩作る課題にも取り組んでおり,嘉永6年(1853年)3月30日に大鳥居固太郎が,4月2日に淵上郁太郎が百詩を達成した。このように真木保臣は一緒に達成を祝っている。4月3日は淵上郁太郎の父祐吉も酒肴を持参し一緒に祝っている。城府を設けず,ある時は諸生を招き,酒を酌み交わし,父母兄弟とも語り合い,門下生のために努力をしていた。そのため諸生は深く真木保臣の言葉に感銘し,水や火をも辞せずとの念を持つに至った。久留米において主張した天保学は水田の地においても拡がることとなった。
※この「子弟教育」の解説は、「山梔窩」の解説の一部です。
「子弟教育」を含む「山梔窩」の記事については、「山梔窩」の概要を参照ください。
- 子弟教育のページへのリンク