子役からスターへとは? わかりやすく解説

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子役からスターへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 05:26 UTC 版)

市川春代」の記事における「子役からスターへ」の解説

1913年大正2年2月9日長野県長野市善光寺門前西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女次女として生まれる。県庁裁判所至近の地であった1919年大正8年)、長野県師範学校附属小学校現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学1924年大正13年8月3日に父が死去同校高等科2年中退して叔父懇意にしていた日活取締役根岸耕一紹介状持ち13歳になった1926年大正14年6月16日日活大将軍撮影所入社した伊奈精一監督の『都の西北』でデビューした主演中野英治の弟役である。そういった子役やら、同輩玉川みちみ仲良く舞妓役などでクレジットもなく出演する日々つづいたが、「ハル坊」と呼ばれてスタッフかわいがられ阿部豊監督邸にお世話になった。 一般的には入社第1作とされているのは、1930年昭和5年)の現代劇長倉祐孝監督入江たか子主演銀座セレナーデ』である。1931年昭和6年)、伊藤大輔監督の『侍ニツポン』で名をなした。時代劇にも出演したが、入江の兄の東坊城恭長監督サトウ・ハチロー原作による市川主演作浅草悲歌』(1932年)など、現代劇にも多く出演した。とくに入江主演、東坊城監督作品重用された。徳永フランク監督の『金は天下廻り持ち』では、谷幹一相手役抜擢された。当時来日したハリウッドスターロナルド・コールマンが同撮影所訪問したさいに、コールマンから「和製コリーン・ムーア」と名づけられた。

※この「子役からスターへ」の解説は、「市川春代」の解説の一部です。
「子役からスターへ」を含む「市川春代」の記事については、「市川春代」の概要を参照ください。

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