乱とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:45 UTC 版)
蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出た中、同年9月、大塩は「檄文」を書き上げて極秘に印刷させた。蜂起が悟られないように、板木は32分割されていたという。やがて、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始した。 天保8年(1837年)2月に入って、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。大塩は蔵書を売り払ったお金を事前に窮民へ分け与え、挙兵への参加をうながした。しかし、平山助次郎と吉見九郎右衛門の密告によって大坂町奉行所に蜂起が露顕。蜂起は実行したものの、当日に鎮圧された。乱による火災は翌日まで続き、1万世帯以上が焼け出された。この火事で大坂の5分の1が焼かれ、俗に大塩焼けと称された。 事件後の厳重な探索で首謀者は次々と自首・自殺、あるいは逮捕されたが、大塩父子の行方は分からなかった。大塩は戦場から離れた後、跡部の暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで大坂東町奉行所の様子を窺った。その後、四ツ橋のあたりで長刀を川に投げ捨て、河内国を経て大和国に逃亡した。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。3月27日、美吉屋の女中がいつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思い、大坂城代(下総国古河藩主)土井利位の摂津平野郷陣屋に密告したことで幕府方に潜伏先が発覚。役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。享年45。
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