永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊
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「鎌倉府」の記事における「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」の解説
応永35年(1428年)正月、将軍・足利義持が後継者不在のまま亡くなり、正長2年(1429年)3月、くじ引きで選ばれた足利義教が新たな将軍となる。鎌倉公方・足利持氏は、自らが将軍になる野心を持っていたため、京都の幕府・義教との関係はさらに悪化した。永享10年(1438年)8月、持氏は京都との調停役となっていた関東管領・上杉憲実討伐を始めた(永享の乱 )。しかし幕府が軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐に失敗して降伏。さらに義教は憲実の助命嘆願も無視し、永享11年(1439年)2月、持氏と嫡子・義久を攻め滅ぼした。 このとき持氏に対して厳しい姿勢を示した義教も、鎌倉府そのものは否定しなかった。新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉に下向させ、鎌倉府を再興させようとする。この構想は、嘉吉元年(1441年)6月の義教暗殺(嘉吉の乱)により白紙化されるが、文安4年(1447年)3月、鎌倉府は持氏の遺児・足利成氏のもとで再興された。永享の乱とその後の結城合戦を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。しかし、対立は解消されないまま、成氏は幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年(1454年)12月に始まった享徳の乱にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した。崩壊した鎌倉府は古河公方・古河府に継承される。
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