永井隆説への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 08:49 UTC 版)
永井隆の浦上燔祭説については、すでに1960年代に医師で永井の弟子の秋月辰一郎が「ついていけない」と述べたり、1970年代には詩人で被爆者の山田かんなどから批判があった。山田かんは永井隆の浦上燔祭説は「反人類的な原理をおおい隠すべき加担にほかならなく、民衆の癒しがたい怨恨をそらし慰撫する、アメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギー」と『潮』1972年5月号で批判した。また、1980年代に作家の井上ひさしも、「永井説によればアメリカの原爆投下を正義の行いであったと強弁でき」、「神の摂理をもちだせば人間世界から責任者を出さずにすむわけだ。為政者にとってこんな都合のいい話はない」と批判した。 高橋真司は『長崎にあって哲学する - 核時代の死と生』(北樹出版 1994年)などにおいて、永井説は戦争責任と原爆投下の責任を免除することになり、かつ、原子爆弾そのものの肯定につながるとして批判した。高橋はまた永井が反共主義者であったことも指摘したうえで、戦争責任や原爆投下の責任の追及をしないままに、戦争を引き起こしたのは「私たち自身である」としたことは、結果的にせよアメリカ政府・GHQ・日本政府の思惑にかなうものであった、とする。そして永井が持てはやされるかたわらで被爆者の声はかき消され、被爆者援護は大きく立ち遅れることになった、としている。 永井のこういった考え方に対して、長崎原爆の被爆者の証言として、怒りを持っていると言う者もいる。
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