乞食から国父に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
1864年1月に哲宗が薨逝すると、神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につけた。息子が王となったことで、興宣君はあらためて「興宣大院君」に封爵された。朝議では、前例の無い存命中の大院君の立場について議論され、礼遇については国王以上の待遇を与える代わりに政治に口出しできない名誉職とする案もあったが、最終的には地位は国王の下、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る四人轎の乗車はしないなど下の設定を取ることで参政が許され、垂簾聴政を行う神貞王后の補佐という名目で摂政となった。実際は神貞王后が大院君に大権を委任していた。
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