乞乞仲象と大祚栄の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 20:56 UTC 版)
『新唐書』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『旧唐書』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、池内宏は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、鳥山喜一は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、新妻利久は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)。 李尽忠(中国語版)の乱が起きたときに渤海建国の母体となった高句麗遺民集団と靺鞨集団が営州から東走したとされるが、このうち靺鞨集団を率いたのは乞四比羽であり、高句麗遺民集団の指導者は『旧唐書』で大祚栄、『新唐書』は乞乞仲象とあって異なる。これについて『新唐書』が参照した『渤海国記(中国語版)』の史料的性格を検討した古畑徹は、乞乞仲象 - 大祚栄という父子関係を認めた上で大祚栄に唐に叛いた者という傷を負わせないための渤海側の思慮によるものであり、事実として承認できるのは乞乞仲象が大祚栄の父であるということのみであるという見解を提出している。
※この「乞乞仲象と大祚栄の関係」の解説は、「乞乞仲象」の解説の一部です。
「乞乞仲象と大祚栄の関係」を含む「乞乞仲象」の記事については、「乞乞仲象」の概要を参照ください。
- 乞乞仲象と大祚栄の関係のページへのリンク