応仁の乱とその後の義廉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:28 UTC 版)
応仁元年1月18日、京都北部で義就と政長が激突した(御霊合戦)。敗れた政長は姿をくらまし山名宗全派が実権を握ったが、細川勝元派も巻き返しを図り、5月に義敏を始めとして各地の宗全派の領国に侵攻した。それとともに両派それぞれ大軍勢を京都に呼び寄せ、26日に京都市街において上京の戦いが起こった(応仁の乱の開始)。義廉は翌2年(1468年)に7月には幕府より管領職・3ヶ国守護職を剥奪されたが、宗全率いる西軍内ではなおもその地位に留まっており、各地に転戦するなど西軍の主力を担った。しかし文明3年(1471年)に有力家臣の1人である朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、文明7年(1475年)に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立した。同年11月、尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし、義敏・義寛父子の盛り返しにより文明10年(1478年)に敏広が守護代を更迭され敏定が新たな守護代に任じられると、敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、義廉は敏広とともに幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。 その後の行方は不明となるが、『大乗院寺社雑事記』延徳3年6月30日条に記された斯波氏の系図には「渋川殿ー義廉ー某越前」とあり、延徳3年(1491年)の段階で義廉は亡くなっているために居所に関する注記が記されていないとする解釈もある。いっぽう義廉の子が朝倉孝景に奉じられて越前国に下ったことは、同記の文明13年11月4日条に見え、上述の延徳3年6月30日条に登場する某と同一人物を指すと考えられる。この子は喝食で栄棟と称し、その9年後の延徳2年(1490年)に連歌師の正広が一乗谷で栄棟と会ったことが正広の句集『松下記』に記されている。この息子が朝倉氏景(孝景の子)に推戴され義俊と名乗って将軍家連枝といわれる鞍谷公方を継ぐこととなり、名目上の越前国主となったという説がある。ただ将軍家連枝という鞍谷公方は後世の創作で、実際の鞍谷氏は奥州斯波氏の嫡流もしくはそれに近い系統に属し、義俊との関連性は見いだせないとの反論もある。
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