応仁の乱と鈎の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:29 UTC 版)
久頼の跡を継いだ六角高頼(亀寿丸)は長禄2年(1458年)に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯が近江守護となったが、政堯は伊庭氏との抗争により長禄4年(1460年)に近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させられた。 応仁元年(1467年)応仁の乱が起こると高頼は重臣の山内政綱と伊庭貞隆に支持されて、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、美濃守護の土岐成頼と共に西軍に属した。文明2年(1470年)京極持清の病没により京極氏が分かれると(京極騒乱)、西軍には京極高清が加わった。近江には土岐氏の重臣斎藤妙椿の軍勢が加わり、文明3年(1471年)には、高頼は箕作城を落とし六角政堯を討ち取っている。 文明9年(1478年)に応仁の乱が収束すると、翌文明10年(1478年)に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられた。しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、長享元年(1487年)足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始された(長享の乱)。高頼は甲賀山中に逃亡したがそこでゲリラ戦を展開したため、戦線は膠着(こうちゃく)状態となった。足利義尚は近江守護の座を側近の結城尚豊に与え遠征を続行したが、長享3年(1489年)近江鈎(まがり)の陣中で病死し遠征は中止された。
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