応仁の乱と播磨奪回とは? わかりやすく解説

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応仁の乱と播磨奪回

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)

赤松政則」の記事における「応仁の乱と播磨奪回」の解説

応仁元年1467年5月からの応仁の乱では、政則は東軍細川勝元側)に与した。政則は山名主力京都集中しているのを見て応仁の乱開始直後山名宗全率い西軍京都交戦しながら、一方で家臣宇野政秀らを播磨攻め込ませ、赤松氏旧領であった播磨備前美作侵攻させた。播磨奪回においては赤松家の旧本拠だった事もあり旧臣牢人から寺社百姓土民までが協力したこともあり、数日奪回した(『応仁記』『難波文書』『広峯文書』)。他の旧領である備前美作応仁2年1468年)までに武力奪回し支配下とした(加賀半国は富樫政親奪回)。 文明3年1471年)には侍所頭人任じられるなど、将軍義政信任寵愛受けた。政則は猿楽名手であり、それが義政気に入られ理由とする説がある。 赤松氏旧領奪回という悲願果たされながら、今度赤松家内部家督争い起こった一族有馬元家赤松惣領家地位狙って政則に叛旗翻した(『大乗院寺社雑事記』)。政則は応仁2年1468年)に元家を殺害し、これは鎮圧したが、以後の政則は内紛苦しめられていくことになる。 応仁の乱文明5年1473年)に東西両軍首脳である山名宗全細川勝元相次いで死去したため、翌年それぞれの後継者である山名政豊細川政元講和結んだが、政則はこの講和最後まで反対した(『大乗院寺社雑事記』)。これは戦乱終結奪回した3か国を失うことを恐れたためとされる結果として、政則が奪回した領国そのまま赤松家分国として保全された。

※この「応仁の乱と播磨奪回」の解説は、「赤松政則」の解説の一部です。
「応仁の乱と播磨奪回」を含む「赤松政則」の記事については、「赤松政則」の概要を参照ください。

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