応仁の乱と朝倉孝景の自立
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「斯波義敏」の記事における「応仁の乱と朝倉孝景の自立」の解説
こうした武衛家の内訌と足利将軍家・管領畠山氏の後継者争いなどに絡んだ守護大名の派閥抗争が応仁の乱に発展すると、義敏は細川勝元率いる東軍に属し、京都の戦乱を後目にいち早く越前において西軍の義廉陣営を掃討していくなど戦果を上げた。また将軍義政を擁する東軍に属したことで、応仁2年(1468年)7月には義敏・松王丸(のちに元服して義良)父子に武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還(西軍内では依然として義廉が武衛家当主及び三ヶ国守護扱い)されるなど、義廉陣営に対して有利な立場に立った。 文明3年(1471年)、越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返り、越前で実力支配を展開していった。この時、義政は孝景が合戦を起こしても行動しないように義敏に命じたので中立化したが、やがて越前の西軍勢力を駆逐した孝景の勢力の前に義敏は苦境に立たされる。最後は越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるものの、文明7年(1475年)末に孝景の総攻撃を受け、孝景によって京都に送り帰された。これを記述する『応仁記』は、西軍方であった甲斐氏が義敏に加担したとするが、甲斐氏が義敏と結んだ事実は確認できず矛盾があり、この記事は虚偽であるとする見解もある。 記録などから義敏と孝景の対立の公然化が確認できるのは、義良(後に義寛)が越前に下向する文明11年(1479年)以降である。義良は越前奪還の兵を出し、また幕府にたびたび訴訟を起こすが(長享の訴訟・延徳の訴訟)、ついに越前の回復を果たせなかった。
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