応仁の乱と朝倉孝景の自立とは? わかりやすく解説

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応仁の乱と朝倉孝景の自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 10:15 UTC 版)

斯波義敏」の記事における「応仁の乱と朝倉孝景の自立」の解説

こうした武衛家の内訌足利将軍家管領畠山氏後継者争いなどに絡んだ守護大名派閥抗争応仁の乱発展すると、義敏は細川勝元率い東軍属し京都戦乱後目いち早く越前において西軍の義廉陣営掃討していくなど戦果上げた。また将軍義政擁する東軍属したことで、応仁2年1468年7月には義敏・松王丸(のちに元服して義良)父子武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還西軍内では依然として義廉が武衛当主及び三ヶ国守扱い)されるなど、義廉陣営に対して有利な立場立った文明3年1471年)、越前国主の座を見返り朝倉孝景東軍寝返り越前実力支配展開していった。この時、義政は孝景が合戦起こして行動しないように義敏に命じたので中立化したが、やがて越前西軍勢力駆逐した孝景の勢力前に義敏は苦境に立たされる最後越前統一目前とした孝景に対抗するため、越前大野土橋城に籠もるものの、文明7年1475年)末に孝景の総攻撃を受け、孝景によって京都送り帰された。これを記述する応仁記』は、西軍であった甲斐氏が義敏に加担したとするが、甲斐氏が義敏と結んだ事実確認できず矛盾があり、この記事虚偽であるとする見解もある。 記録などから義敏と孝景の対立公然化が確認できるのは、義良(後に義寛)が越前下向する文明11年1479年以降である。義良は越前奪還の兵を出し、また幕府にたびたび訴訟起こすが(長享訴訟延徳訴訟)、ついに越前回復果たせなかった。

※この「応仁の乱と朝倉孝景の自立」の解説は、「斯波義敏」の解説の一部です。
「応仁の乱と朝倉孝景の自立」を含む「斯波義敏」の記事については、「斯波義敏」の概要を参照ください。

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