応仁の乱と鬼吉川とは? わかりやすく解説

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応仁の乱と鬼吉川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/31 14:16 UTC 版)

吉川経基」の記事における「応仁の乱と鬼吉川」の解説

応仁元年1467年)、応仁の乱発生すると、細川勝元率い東軍属し西軍山名宗全の軍と洛中において壮絶な死闘展開し、その勇名全国轟かせた。同年9月一条高倉10月武者小路今出川北小路高倉鹿苑院口の合戦などに参加している。 翌、応仁2年1468年)には細川勝元播磨国福井庄を恩賞として還付された。同年8月にも細川勝元従い畠山義就京都相国寺付近死闘繰り広げた戦い畠山勢が優勢であり、細川勢からは逃亡者続出。経基は不利な状況にも関わらず配下叱咤激励し陣地死守し、畠山勢に徹底的な反撃加えた。この結果細川勢は勢い取り戻し畠山義就撃退することに成功した。その戦の強さに対して、「鬼吉川」「俎板吉川」の異名取り、その勇名全国響き渡った。この乱のなか共に戦った尼子経久の才を見込んで娘を正室として嫁がせ、嫡男政久らが生まれている。 応仁の乱影響日本全国波及し、世は背反常なら戦国時代へ移り変わっていく。備後国内では和智氏宮氏山内氏らの国人勢力が、東軍山名是豊攻撃将軍足利義政の命により、経基は山名是豊救援して備後国人衆を撃退した。この功に対し足利義政は、石見国佐磨、安芸国寺原有馬北方河合などの地を経基に与えた吉川氏所領山県郡東北可愛川流域大半にまで及ぶことになり、このようにして経基は「吉川氏中興の英君」と呼ばれることとなる。 その後文明14年1482年)には幕府の命により河内出陣文明19年/長享元年1487年)にも播磨国赤松政則要請により、播磨遠征して奮戦した

※この「応仁の乱と鬼吉川」の解説は、「吉川経基」の解説の一部です。
「応仁の乱と鬼吉川」を含む「吉川経基」の記事については、「吉川経基」の概要を参照ください。

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