応仁の乱後とは? わかりやすく解説

応仁の乱後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:23 UTC 版)

日野富子」の記事における「応仁の乱後」の解説

長禄3年1459年以降京都七口には関所設置され関銭徴集していた(京都七口関)。この関所の設置目的内裏修復費、諸祭礼費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激高した民衆文明12年1480年)に徳政一揆起こして関所破壊した。富子は財産を守るために弾圧乗りだし、一揆後はただちに関の再設置取りかかったが、民衆だけでなく公家怨嗟の的となった義尚成長すると富子を疎んじ始め文明15年1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色溺れたこのため富子は一時権力失った。しかし延徳元年1489年)に六角高頼討伐長享・延徳の乱)で遠征中の義尚25歳没した息子急死に富子は意気消沈したが、義視自分の妹良子の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍擁立するよう義政協議し同年4月合意が行われた。延徳2年1490年正月義政没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視権力持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸破壊し領地差し押さえた翌年義視死後親政開始した義材もまた富子と敵対した明応2年1493年)、義材が河内出征している間に富子は細川政元と共にクーデター起こして義材を廃し義政の甥で堀越公方足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた明応の政変)。その3年後、明応5年1496年)に富子は57歳死去した

※この「応仁の乱後」の解説は、「日野富子」の解説の一部です。
「応仁の乱後」を含む「日野富子」の記事については、「日野富子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「応仁の乱後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「応仁の乱後」の関連用語

1
実隆公記 デジタル大辞泉
92% |||||

2
円成寺 デジタル大辞泉
76% |||||

3
金戒光明寺 デジタル大辞泉
76% |||||


5
三千院 デジタル大辞泉
58% |||||



8
36% |||||

9
36% |||||


応仁の乱後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



応仁の乱後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日野富子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS