応仁の乱以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:58 UTC 版)
応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱で、確執のあった隣国若狭の守護武田信賢が東軍に属したのに対抗し、義直は西軍に属し京都の戦で活躍したが、東軍側にあった将軍義政によって丹後・伊勢守護職を解かれた。文明6年(1474年)4月、両軍の間に和議が成立すると、義直は東軍に帰順・隠退、嫡男義春が幕府に出仕して丹後守護を回復した。義春は文明16年(1484年)に19歳で没し、丹後守護職は義直に再度与えられた。 明応2年(1493年)に丹後で起きた叛乱は鎮圧したものの、その後も国衆の叛乱が相次ぐ。文明16年(1484年)に義春が19歳で亡くなり、継承した弟の義秀は明応7年(1498年)に国衆に攻められ自害した。
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