応仁の乱期の公卿の屋敷とは? わかりやすく解説

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応仁の乱期の公卿の屋敷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)

中世の寝殿造」の記事における「応仁の乱期の公卿の屋敷」の解説

寝殿造事実上文明8年(1476)11月室町殿焼失によって終焉迎えたといえる応仁の乱終息前年である。その応仁の乱で京はほぼ灰燼化した南北朝以降僅かに残っていたかもしれない公卿寝殿造もほとんど焼失する10年上の京の戦乱焼け出され、あるいは疎開した公卿達の住まい川上貢まとめているがそこではこんな有様である。 一条殿、「相国寺西、畠山陣屋二十五坪」、南都仏地院(画像a40)が突起除いて54坪だから25坪はその半分以下。本当に疎開先の仮住まいである。 二条殿、「押小路烏丸西、小屋一宇新造移徒」。 九条殿、「非御旧跡、寺也」。 近衛殿、「僕、進藤長泰宿所借住」、進藤長泰なる者は近衛家家僕らしい。「新造移徒、カリ屋体也」。 四条殿、「隆量卿、濃州より上洛借屋居住乱の後すぐさま屋敷再建出来た例外足利義政正室日野富子の甥、日野政資邸ぐらいである。そんな借屋住いで、有職故実年中行事出来る訳もなく、以前のような屋敷再建する財力も無い。かつ10年前仮住まい続けた結果住まい有職故実日常のものではなくなっている。「小屋一宇」とか「カリ屋体」から脱出し、ようやく屋敷再建出来たとしても常御所主殿とした例がほとんどで、常御所会所先に見てきた小御所群と同じく母屋・庇の構造」ではない。

※この「応仁の乱期の公卿の屋敷」の解説は、「中世の寝殿造」の解説の一部です。
「応仁の乱期の公卿の屋敷」を含む「中世の寝殿造」の記事については、「中世の寝殿造」の概要を参照ください。

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