応仁の乱期の公卿の屋敷
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「中世の寝殿造」の記事における「応仁の乱期の公卿の屋敷」の解説
寝殿造は事実上文明8年(1476)11月の室町殿の焼失によって終焉を迎えたといえる。応仁の乱終息の前年である。その応仁の乱で京はほぼ灰燼と化した。南北朝以降も僅かには残っていたかもしれない公卿の寝殿造もほとんど焼失する。10年以上の京の戦乱で焼け出され、あるいは疎開した公卿達の住まいを川上貢がまとめているがそこではこんな有様である。 一条殿、「相国寺西、畠山陣屋二十五坪」、南都仏地院(画像a40)が突起を除いて54坪だから25坪はその半分以下。本当に疎開先の仮住まいである。 二条殿、「押小路烏丸西、小屋一宇新造移徒」。 九条殿、「非御旧跡、寺也」。 近衛殿、「僕、進藤長泰宿所借住」、進藤長泰なる者は近衛家の家僕らしい。「新造移徒、カリ屋体也」。 四条殿、「隆量卿、濃州より上洛、借屋居住」 乱の後、すぐさま屋敷を再建出来た例外は足利義政の正室・日野富子の甥、日野政資邸ぐらいである。そんな借屋住いで、有職故実な年中行事が出来る訳もなく、以前のような屋敷を再建する財力も無い。かつ10年前後仮住まいを続けた結果、住まいの有職故実は日常のものではなくなっている。「小屋一宇」とか「カリ屋体」から脱出し、ようやく屋敷を再建出来たとしても常御所を主殿とした例がほとんどで、常御所や会所は先に見てきた小御所群と同じく「母屋・庇の構造」ではない。
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