丹後小俣氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 02:16 UTC 版)
小俣氏連の子である小俣満連は足利義満に仕え奉公衆に列せられた。一色満範が山名氏を討った功で丹後守護に任じられると満連も丹後にある足利将軍家の直割料(御料所)の荘官に任じられ丹後に下った。 以後丹後の小俣氏は持連・成連・尚連・稙連・晴連・藤連・昭連と山陰において栄えた。 小俣稙連は応仁の乱以降の丹後府中での戦いで荒廃していた丹後安国寺を再興したことで有名である。 安国寺は信仰の対象である寺であることは当然であるが、守護領に対する足利将軍家(幕府)の重要な出先機関でもあり、守護と幕府間に騒乱が勃発した場合には幕府が守護家を攻めるための軍事拠点(城)となる重要な施設であったとされる。 政争に明け暮れた将軍足利義稙の命で稙連が苦労して再興したのだろう。北側の寺裏山に砦(城塞)も築かれたといわれている。 丹後安国寺は天橋立港を見下ろす小高い丘上にあり、交通の要衝を抑えるかたちでつくられている。 丹後が長岡家のものとなると、小俣昭連は最後の将軍足利義昭に従い備後鞆へ向かう。やがて将軍が京都へ帰ると従い、最後まで看取った者の内の一人といわれている。
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