丹後杜氏組合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)
丹後杜氏組合は、1909年(明治42年)に「宇川杜氏成徳会」として、徳操の涵養と技能の修養に務めてその名声を発揚することを目的に発足した。発足と同時に第1回酒造講習会を開催し、以後、毎年のように杜氏や酒蔵従業員の研修を目的に講習会を開催したり、自醸酒競技会や鑑評会で成績優良者の表彰を行った。当初の組合長は峰山税務署長が務め、副会長を上宇川村と下宇川村の村長が担った。襟度を保つべく『宇川酒造組合従業員心得』と題した従業員手帳を作成し、1909年(明治42年)9月には宇川で開催した杜氏講習会の講和記録を『杜氏ノ心得』と題して発刊した。また、伏見酒造組合でも蔵人取締規定を作成して組合員に通知しており、これは、多くの従業員が伏見に赴いていた宇川杜氏組合の従業員にも適用された。 当初の名称は、宇川出身の出稼ぎ労働者が丹後杜氏の大多数を占めていたことによるが、少数ながら丹後地方の他の地域出身者からも杜氏を輩出したことに配慮し、1923年(大正12年)4月と1940年(昭和15年)9月の改正を経て、「丹後杜氏組合」と改称した。1970年代には丹後町長の蒲田保が組合長を務め、組合員238名のうち、宇川地域以外の出身者は宇川と隣接する丹後町此代から4名、伊根町大原から7名がいた。 20世紀後半、丹後杜氏組合は職人の高齢化と農業離れによる後継者不足から、大きな転換期を迎えた。1991年(平成3年)度には、丹後杜氏組合員数は、杜氏7名・蔵人64名の計71名まで数を減らし、組合は2005年(平成17年)に解散した。最後の丹後杜氏組合長は、丹後町三山出身の増田修で、解散時の組合員は杜氏が1人か2人で、他に数人の蔵人のみとなっていた。
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