出身地域
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「国際連合事務総長の選出」の記事における「出身地域」の解説
現事務総長が2期(以上)務めた場合、次期事務総長の選考では、現事務総長と同じ地域グループの候補者は選考段階で除外される。 1976年、中国は西欧人のクルト・ヴァルトハイムに対して象徴的な拒否権を発動した。 1981年、中国はアフリカ出身の候補者を支持し、ヴァルトハイムが最終的に立候補を見送るまで16回の拒否権を行使した。安保理はラテンアメリカ出身の候補者を選ぶことで行き詰まりを打開した。 1991年、アメリカとイギリスは、全ての地域の候補者に対し選考を開放しようと試みたが、中国とフランスはアフリカ出身の候補者への支持を表明した。 1996年、フランスの国連大使は次期事務総長を「アフリカ出身者にする」と発言した。他の地域からの候補者を指名しようとしたが、中国がアフリカ以外の候補者に拒否権を行使すると考えた外交官たちによって却下された。 2006年、中国は次期事務総長はアジア出身者であるべきだと発言し、アジア出身の候補者全員に賛成票を投じた。
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出身地域
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「アジア農村指導者養成専門学校」の記事における「出身地域」の解説
留学生は1976年よりアフリカ(ナイジェリア、ガーナ)からも受け入れるようになった。1974年には16カ国から42人が入学している。 1993年時点で鶴川学院農村伝道神学校東南アジア科時代を含めて卒業生は712人となっている。
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出身地域
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[全画面表示] 丹後杜氏の出身地である宇川の集落分布(緑は発祥地の井上。赤は1989年以前に廃村)1 上野(Commons)2 久僧(Commons)3 中浜(Commons)4 尾和5 袖志(Commons)6 谷内7 上山8 平(Commons)9 井上10 中野11 遠下12 鞍内13 井谷14 畑15 此代16 小脇(Commons)17 乗田原18 三山(Commons)19 竹久僧 江戸時代にはじまり、近年に至るまで、出身者が特定の地域に固定していることは、酒造出稼ぎの特異な実態である。出稼ぎ先の酒造所では、いくつかの集落からの出稼ぎ集団が混成して、頭領である杜氏を筆頭にひとつの集団を形成した。1981年(昭和56年)の丹後杜氏組合の資料によると、酒造出稼ぎの出身地域の分布は丹後町が61パーセント、そのうち丹後半島最北端の宇川地域から72人70.5パーセント(下宇川46人45.1パーセント、上宇川26人25.4パーセント)と大勢を占め、2位伊根町の20パーセントよりもはるかに多い。 丹後町の丹後杜氏出身地区の分布(1981-1982年)地区名人数(人)構成比(%)下宇川 46 45.1 上宇川 26 25.4 竹野 8 7.8 豊栄(上宇川地区三山からの移住者6名を含む。) 15 14.7 間人 7 7 宇川から出稼ぎに出た者達の出身集落は以下の通りであった。 上宇川地区 平、井上、中野、井谷、畑、遠下、鞍内、三山、小脇、竹久僧、此代、乗田原 下宇川地区 上野、久僧、谷内、上山、尾和、袖志、中浜 このうち、三山・小脇・竹久僧・乗田原集落は、昭和30~40年代までに全戸離村または廃村となった。 大正から昭和中期にかけて、酒蔵に赴いた幾人かの調査記録によれば、宇川では農業従事者はほぼすべて冬場は酒蔵に出向いた。多くは高等小学校を卒業した15~16歳から出稼ぎをはじめているが、なかには、農林学校を卒業した19歳から、戦地から復員した22歳からといった者もいた。酒蔵への出稼ぎは「土地の習わし」ととらえられており、現職杜氏である親族や近所の紹介を頼るか、そうした伝手のない者は丹後宿など斡旋業者を頼って酒蔵を訪ねた。 戦前には宇川に隣接する丹後町此代や伊根町からも杜氏を輩出したが、第二次世界大戦後の杜氏はほぼ宇川出身者のみとなった。その他の地域からは、杜氏は絶えたものの蔵人として出稼ぎに出る者はおり、丹後町東部の竹野、豊栄、間人地区や網野町嶋津からも少数ながら蔵人が出ている。 蔵人総体の出身地の推移をみると、1953年~1972年の20年間に、丹後杜氏発祥の地である上宇川地区を含めた宇川全域からの出身者は約50パーセント減少した。ただし、宇川でも伊根よりの下宇川地区と、伊根町筒川や朝妻では増加傾向があり、出稼ぎ労働者の供給源が東寄りに拡散する傾向がみられた。
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