出身地の謎――アルザス出身?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:38 UTC 版)
「チャールズ・マーティン・レフラー」の記事における「出身地の謎――アルザス出身?」の解説
渡米後に、アルザス生まれのウクライナ育ちを自称したため、長年にわたってその生い立ちが信じられてきたが、現在では研究者によって、過去を封殺するために出生地をでっち上げたことが究明されている。なお、姓の前に「トルノフ」を加えて二重姓にした、チャールズ・マーティン・トルノフ=レフラー(Charles Martin Tornov-Loeffler)という氏名も伝えられている。レフラー姓(Löffler)がドイツ語で「ヘラサギ」を意味することから、それに該当するロシア語ないしはウクライナ語の単語(Торнов)を付け加えたとレフラー本人は説明していたようである。 生前レフラーは、ミュールーズ生まれと主張してきたために、ほぼすべての音楽事典が、この贋情報を掲載している。存命中に発表された記事でさえ、レフラーの「典型的なアルザス気質」を詳説したほどであり、後にダリウス・ミヨーは自伝の中でレフラーを「スイス出身の老作曲家」と回想した。実のところは、音楽学者でレフラーの伝記作家のエレン・ナイトが明らかにしたように、レフラーはフランス人ではなく生粋のドイツ人であった。ベルリン市民を両親に、ベルリン近郊のシェーネベルクに生まれ、マルティン・カール・レフラー(Martin Karl Löffler)と名付けられた。したがって国籍はフランスではなくプロイセンであり、母語はドイツ語であった。 ただし幼少期をコスモポリタンな環境で過ごしたという逸話や、ミヨーの記憶は、あながち誤りであるとはいえない。レフラー家が、農薬開発の権威だった父親の仕事上の都合から、たびたびヨーロッパ各地を転々としたため、レフラーはアルザスやキエフ近郊のスミエラで少年時代を過ごし、その後はハンガリーやスイスにも暮らしているからである。レフラーが反プロイセン感情を募らせるようになったきっかけは12歳のとき、共和派の父親が投獄され、明らかに拷問を受けた上で、やっと釈放の目処が立った矢先に、心臓発作のために獄死したことに遡る。
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