酒造りへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)
杜氏として、宇川出身者の酒造りの技量が注目されるようになったのは、伏見においては江戸時代末期、文久-慶応年間(1861年-1868年)の頃である。当時20余名の宇川出身の蔵人が伏見地方で酒造りに携わったほか、南山城や大和方面にも進出し、1881年(明治14年)頃には50名以上、明治末期から大正初期には300名以上が酒造りに従事して丹後杜氏の全盛期を築いた。 伏見では、鳥羽・伏見の戦いで多くの酒蔵が焼失し、復興には10年以上を要した。確実な販路を得たのは1877年(明治10年)以降であり、質量ともに充実し名声を高めたのは1889年(明治22年)に鉄道での流通が可能になったことによる。当時の伏見の杜氏は過半数が越前杜氏で、次いで丹後杜氏が多数だった。伏見の酒蔵に従事した丹後出身の杜氏及び蔵人は、公的な記録に残されているだけでも1921年(大正10年)の時点で102人、1939年(昭和14年)には385人(うち杜氏46人)、1954年(昭和29年)には300人(うち杜氏25人)、1976年(昭和51年)には193人(うち杜氏15人)おり、いつの時代においても丹後杜氏総数の約半数を占めた。明治時代末期から昭和初期には、伏見地方の醸造業界を牛耳ったとも揶揄される発展を遂げた。記録に残る1913年(大正2年)から1969年(昭和44年)にかけて、伏見酒造組合における歴代の丹後杜氏組合員検査立合人表彰者は、42回38名を数える。 太平洋戦争中には、大陸に多くの日本人が渡ったことから、現地での日本酒の需要に応じて出稼ぎ先の酒蔵から満州に派遣された丹後杜氏もいた。
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