酒造工場として
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1907年(明治40年)、清水の湧く酒造りに適した新たな土地を得た福島藤助は、10年来酒造業を営んできた弘前市茂森町から移転した。福島酒造会社と名称を改め、吉野町(当時の地名は中津軽郡清水村富田字吉田野)に工場・倉庫を建設し、酒造を開始する。清酒「吉野桜」が主たる製品であった。移転に伴い、茂森町にあった醸造所は、製造した酒の販売を行う支店としての役割を果たすようになった。また元寺町にも支店が存在していた時期がある。 吉野町の工場では当初から夏季の醸造が試みられていたが、1913年(大正2年)工場の増設と設備が整えられたことで、季節を問わず醸造ができる四季醸造がさらに本格化する。全国的にも四季醸造が行える工場として革新的であった。また「長安正宗」という銘柄も新たに売り出されるようになった。年間製造高は1915年(大正4年)には3千石、1921年(大正10年)には、6千石となり、当時の青森県全体の酒造量8万3千石のうちの県内第一の酒造量となった。このころ福島藤助が創業した富名醸造株式会社の製造高と合わせると1万石を超えた。県内のみならず北海道にも酒を輸出し、小樽市港町に支店が設けられ、札幌市南四条には青森県物産館が建てられた。1922年(大正11年)には、資本金200万円で福嶋醸造株式会社が設立され、個人企業から株式会社へと進展する。 こうした酒造業の成功には、当時、第8師団が弘前に設置されたことや戦勝景気により需要が高まったこと、鉄道の開通により販路が拡大したことなどが大きく影響している。拡大の一途、1925年(大正14年)、福島藤助が心臓麻痺により55歳で急逝する。福嶋醸造株式会社の存在は1942年(昭和17年)の段階まで確認できるものの、事業の経営は福島家から離れていく。 1940年(昭和15年)には、弘前市品川町に設立された御幸(みゆき)商会によって一時借用され、リンゴ酒が製造された。太平洋戦争中は米不足のため清酒の製造が制限され、それを補うようにリンゴ酒の製造が盛んとなっていた。戦時中にリンゴ酒製造免許を取得していた吉井勇によって建物が引き継がれ、一時は年三千石のリンゴ酒を製造した。1949年(昭和24年)に日本酒造工業株式会社に商号を改めた吉井勇は、1953年(昭和28年)の2ヶ月間の欧米視察の翌年、朝日麦酒株式会社の後援を得て、資本金1億円で朝日シードル株式会社を設立した。1億3千万円もの投資で、170石入り大型貯蔵タンク98基とスウェーデン製遠心分離機2台を導入し、最終的には年間200万箱のリンゴでシードル10万石の製造を目論んでいた。技術顧問としてフランスからミシェル・ヴィエルを弘前に3ヶ月間滞在させ、本格的な欧風シードルの製造を目指し、遂に1956年(昭和31年)、「朝日シードル」が発売される。新たな商品は弘前産業界の期待を集め、また朝日麦酒株式会社の販売網に乗せることで、地方での製造のハンディキャップを補える目算であった。 しかし当時の日本人の嗜好に合わなかったこともあり、商品の売れ行きは期待に反し、生産量は当初の計画の3分の1程にとどまった。やがて、朝日シードル株式会社はニッカウヰスキーの傍系会社となり、1960年(昭和35年)には、同社の弘前工場として、シードル事業を引き継ぐとともに秋には東北地方向けのウイスキー製造を開始した。その後手狭になり、1965年(昭和40年)に工場は弘前市栄町に移転したため、酒造工場としての稼働していたのはこの時点までとなる。1967年(昭和42年)、日本酒造工業株式会社は吉井酒造株式会社に商号が変更される。清酒「吉野桜」は、吉井酒造によって商標が登録され、現在も販売されている。 以降、倉庫は政府米の保管庫として1978年(昭和53年)から1997年(平成9年)までの間使用された。
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