出稼ぎ労働の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)
酒造出稼ぎの丹後地方出身者の年齢構成割合の推移(丹後杜氏組合資料より)年49歳以下の人数(%)50歳以上の人数(%)昭和38年 89 11 昭和53年 38 62 昭和54年 32 68 昭和56年 26 74 昭和57年 23 77 質的な変化や量的な高まりは1955年(昭和30年)以後にみられる。戦前まで、出稼ぎに出る者は経営耕地が30アール以下の零細農家の次男三男や未婚の女子が中心で、男子は酒蔵に、女子は機屋に赴くのが主であった。しかし1955年(昭和30年)以降は世帯主の出稼ぎが多くなり、一例を挙げれば1968年(昭和43年)の伊根町からの出稼ぎ者214名のうち78パーセントにあたる169人は世帯主である。これは、次男三男や未婚の女子がすでに転出(移住)してしまい、出稼ぎに出られる者が地元で農林漁業を営んでいる世帯主しかいなくなっていたことを意味している。戦前までは「百日稼ぎ」と称された3~4カ月の出稼ぎ期間も、失業保険の給付との兼ね合いで実質6カ月就労する者が多くなり、こうした季節的労働の長期化と移住は離村現象ともみられ、集団で行われれば地元集落機能の崩壊、すなわち廃村現象となる。 昭和後期の出稼ぎは、半数以上が酒蔵に出向き、なかでも伊根町では8割以上が酒蔵に出向いた。期間は秋の収穫が終わる11月から、翌年の苗代を始める4月までの間で、行先は伏見・西宮・灘・福知山など京阪神の酒蔵が多かった。 やがて、交通インフラが整ったことによる通勤圏の拡がりや、丹後地域の地場産業である丹後ちりめんの発展などにより生活手段が農業以外に求められるようになると、農閑期の生業であった出稼ぎは自然と衰退した。昭和後期の「かつて酒造出稼ぎに出ていた者で、現在は酒造出稼ぎを止めた人の理由」アンケートによると、回答者30名のうち40パーセントが機業(織物業)に、23.7パーセントが会社員など地元雇用や自営業に転職し、13.3パーセントが健康上の理由から、16.7パーセントが老齢により廃業している。
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