出稼ぎ漁師の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 10:03 UTC 版)
一連のニシンの漁期を「始納中」(しのうちゅう)と呼ぶ。始納中は毎年3月から5月の短期間ながら、膨大な労働力を必要とし、当時の北海道の人口ではとても賄いきれないため、漁期には北海道内はもとより東北地方各地より出稼ぎ労働者が北海道西海岸に集結した。すでに江戸期から数万人の労働者が蝦夷地へニシン稼ぎに渡っていたが、東北地方に大打撃を与えた天保の飢饉以降は一層顕著となり、明治初期で5、6万人、さらに北海道開拓が本格化した明治20年(1887年)で10万人近くに上った。大正14年(1925年)の調査では、ニシン労働者約6万5千人の内訳は地元3割、道内2割、道外5割となる。そのうち道外者は青森県出身者が最も多く、ついで秋田県や岩手県などの東北各地である。 彼ら出稼ぎ労働者のうち男性は「ヤドイ」(雇い)、あるいは「ヤン衆」と呼ばれていた。「ヤン」の語は、アイヌ語で北海道島を意味する「ヤウン・モシリ」に由来するとも、網曳き漁を意味する「ヤーシ」に由来するとも言う。しかし、「ヤン衆」には俗語めいたニュアンスが伴うため、漁場の親方は彼らを年齢にかかわらず「若い衆」と呼んでいた。これは17、8歳の少年でも、60歳近い老漁夫でも同様である。一方、女性の出稼ぎ者はオロロンと呼ばれた。彼女達は陸上でのニシン運搬やニシン潰し(ニシンの加工)に従事したが、実直な手仕事に耐えられずヤン衆相手の売春に糧を求める者も少なからずいた。彼女たち漁場の娼婦は七連(ななつら)と呼ばれた。娼婦を一回買う相場が身欠きニシン7連(約140匹)だったことが名の由来である。 前年の秋に周旋屋(人材派遣業)と契約を結んだ出稼ぎ漁師たちは、年明けて3月中旬になれば簡単な夜具と自前の食料、あるいは南部煎餅や干し柿など親方への土産物を手にしてニシン漁場へと向い、宿舎を兼ねた親方の大邸宅・鰊御殿に集結する。網子合わせ(アゴアワセ)と呼ばれる大漁願いを兼ねた顔合わせの祝宴を催した後は、漁への臨戦態勢として除雪作業や漁具の整備、或いは鰊粕製造用の薪の確保に奔走する。 3月下旬、ちょうど彼岸の中日ころの大安吉日を選んで「網下ろし」が執り行われる。親方や船頭が神棚に拍手を打って豊漁祈願をしたのち、漁夫一同に規則と各自の役割を申し渡す。以降は無礼講で飲み交わし、鰊場作業唄に合わせて親方や船頭、さらに地域の顔役などを胴上げして大漁を祈る。やがて4月になれば、浦々にニシンの群れが集団で押し寄せ、産卵・放精のために海面が白く染まる現象「群来」(くき)の知らせが届き始める。江戸期のニシン漁では資源保護のため群来を実際に見極めた上で漁を始めたが、明治以降は周辺海域の群来情報から予測を立ててあらかじめ網を仕掛け、ニシンを待ち構えた。以降、出稼ぎ者は一日につき7、8合の割合であてがわれる豊富な白米飯と焼き魚の代償として、船漕ぎに網起こし、ニシン運搬、ニシン加工とあらゆる肉体労働に邁進した。 一連のニシン漁が終了するのは5月下旬である。今期の漁で破損した漁具を陸揚げして修理するほか、魚網は腐敗を防ぐため染料とともに煮沸する。後片付けを済ませた上で、網子別れ(アゴワカレ)と呼ばれる解散の宴を催す。雇い漁師には規定の報酬とともに、九一(くいち)と呼ばれるボーナス、さらに土産物の干しカズノコや身欠き鰊が支給された。平均的な出稼ぎ者の報酬は、米1俵が3円だった明治30年代で30-40円。九一は30円あまりである。 一連の漁期が一段落した5月の北海道西海岸は、ニシン製品の売買や積み出し、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」と称されるほどの賑わいに包まれた。
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