出稼ぎと移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 23:39 UTC 版)
愛知県型の打瀬船(縦帆2枚)が各地に広まり、焼玉エンジンが搭載される等で、打瀬船の航行性能が高まると、各地の打瀬網漁は、次第に、地先の沿岸域から他の海域へ遠征して漁労をすることが多くなった。また、遠征先の漁師町には、他県船を受け入れる態勢を整える地域も現れた。 愛知県打瀬の「灘行き」と海外移住 例えば、愛知県打瀬は、明治30年代から遠州灘を漁場にするようになり、これを「灘行き」と称した。さらに朝鮮半島や能登沖の日本海、銚子沖、三陸沖に出漁する者もあった。また、当時の国策であった漁業面での海外進出に則り、愛知県が沿岸域での漁業紛争を避ける目的で、打瀬漁民の海外移民を推奨し、朝鮮半島南東部の麗水への移民が補助され、多数の漁師が打瀬船とともに移住(59戸,243名,打瀬船56隻)した。 内灘漁民の猿払への出稼ぎ 石川県内灘町では、明治20年代から北海道に鰊漁の出稼ぎに行くことが盛に行われ、これが足掛かりとなり、明治40年ごろからの猿仏村でのホタテ貝曳漁(桁網を曳く潮打瀬)につながり、出稼ぎや稚内への移住が増加した。その後、戦後になると乱獲が続き、昭和29年以降ホタテ貝の漁獲量が急減し、昭和38年以後は採算がとれず、翌39年には資源保護のため禁漁となり、幻のホタテ貝となった。内灘町からの出稼ぎ漁業の最後は、昭和31,32年頃である。 このホタテ貝漁の復活のきっかけは、昭和46年の猿払村のホタテガイ漁場造成事業による、大規模なヒトデの駆除(113トン) と種苗放流(15,600,000粒)、及び、昭和48年の種苗放流(60,000,000粒)である。貝の育成を3年間待って、昭和49年の漁獲量が1,674 トンにのぼり、それは計画の437トンの約3倍であり、栽培漁業によって資源枯渇の状態から脱している。 伊吹打瀬の「下行き」と長洲の海老舎 明治初期から昭和中期にかけて、大分県宇佐市の長洲(旧長洲町 (大分県))で、打瀬網漁で獲れたアカエビを干物(商品名「カチエビ」)に加工し、中華料理の材料として神戸や長崎の貿易商を通じて中国や台湾に向け出荷した水産加工業者(通称「海老舎(エビシャ)」)が十数社生まれた。この海老舎の活動の最盛期は昭和10年前後とされ、当時は、愛知県型の打瀬船と焼玉エンジン付きの打瀬船が次第に増えていた頃で、長洲の海老舎を頼って、香川県の伊吹島や広島県横島等から長距離を打瀬船で遥々移動し、長洲の漁港を基地にして豊前海で季節操業を行う打瀬船が数多くあった。「海老舎」は、単なる水産加工業者ではなく、打瀬船を多数囲い込み、その漁獲したアカエビを全量買取り、漁師の生活や漁業のための資金の貸し付けなど金融の役割も果たし、さらに、季節操業にやってくる県外の打瀬船の受け入れを担った。大分県の農林技師が著した昭和14年の「豊前海振興調査資料」では、周防灘の打瀬網漁は、大分県200隻(内100隻は香川県広島県からの出稼漁船)、山口県300隻、福岡県60隻で合計約600隻となっており、このことから、昭和14年頃大分県に入ってくる打瀬網漁の他県船は、香川県と広島県からの約100隻であったことが判る。なお、香川県の伊吹島では、山口県や大分県へ打瀬漁で出稼ぎに行くことを「下行き」と呼び、大分県では、他県からの打瀬船を「他所船(よそぶね)」と呼んでいた。 横島打瀬の移住 打瀬網漁業が盛んであった広島県横島においては、愛知県型の漁船が用いられるようになると、エビの漁場が多かった周防灘方面まで航海し、帆打瀬を行うようになった。漁場に近い漁港に漁船を係留し、長期休暇期間に帰省する「出稼ぎ」の形態であったが、徐々に漁場に近い山口県や大分県に移住するようになった。 能地の「家船」と枝村 「家船」(えぶね)は、「小船を住まいとして家族が居住し、主として海産物の採取と販売に従事しながら常に一定の海域を移動・出稼する漁民」とされ、広島県豊田郡能地(旧豊田郡佐江崎村能地、前豊田郡幸崎町能地、現三原市幸崎町能地)の「船住まい」「夫婦船」(めおとぶね)をはじめ、筑前国鐘ガ崎(現福岡県宗像市鐘崎)の「アマ」、肥前国瀬戸(現長崎県瀬戸町、瀬戸が親村で平戸と五島が枝村。)の「家船」、豊後国津留集落(現大分県臼杵市)の「シャア」として、近世から近代にかけてそれぞれの漁港で多く見られた。その中で、鐘ガ崎の「アマ」については、ポルトガル人のイエズス会宣教師であったルイス・フロイスが、インド管区長サンドロ・バリニヤノに宛てた 1586年(天正14年)10月17日付の書簡の中で、「クリヨネが豊臣秀吉に謁見するために船で長崎を発ち、東上する途中で六、七艘の小さい漁舟(家船と思われる。)を見かけた。」とあり、すでに16世紀末に九州北部に現れていたことが確認される。また、能地は、「瀬戸内海漁業の発祥の地」とも言われ、出漁の際に「浮鯛抄」(由緒書)を持参し、漁業権の規制を受けずに広範囲に手繰網(小網)をしたことで知られ、瀬戸内海各地に多くの枝村(香川・岡山・愛媛・広島・山口・福岡・大分の7県、約100カ所を超える。)を形成していった。 この枝村の拡大は、江戸幕府が、ポルトガルやオランダ、中国(明・清)との長崎貿易等によって国内からの流出が危惧された金や銀、銅の代わりとして必要となった「俵物三品」(煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ))と「諸色」(昆布・鯣(するめ)・鶏冠草(ふのり)・所天草(ところてんぐさ)(心太草、てんぐさ)・鰹節・干魚・寒天・干蝦・干貝)の海産物の供出を全国の浦々(漁村)に求めたことが強く影響した。18世紀末に松山藩の漁村にも、「俵物」の供出が厳しく課された。愛媛の一部の漁村では地元漁民が極めて少なかったので、これらの村々では、漂泊的出稼漁民を定着させることによって、地先漁場を確保しようとしていた。その上、過大な「俵物」の供出を幕府から求められ、能地をはじめとする「漂泊的出稼漁民」を自村に呼び寄せ、その生産力によって課せられた「俵物」の供出を補おうとしたため、能地(広島県三原市幸崎町)、二窓(広島県竹原市忠海町)、瀬戸田(広島県豊田郡瀬戸田町)、豊浜(広島県豊田郡豊浜村)、阿賀(広島県呉市)、吉和(広島県尾道市)、岩城(愛媛県)の漁民が、瀬戸内の各漁村に迎えられ、移住が進んだ。定住しようとする漁民は、住むための家屋や宅地、耕地(畑)を確保するため、海岸に近い裕福な地元農民を抱主に選定し、その操業する「がぜ網(藻打瀬)」で引き揚げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などが、肥料として抱主に提供された。 また、能地では、明治20年頃から手繰網漁から打瀬船による打瀬網漁へ切り替わり、明治末期には愛知県型打瀬船の導入が進んだ。これを契機に、家族ではなく若い漁師を雇って出漁する漁業が多くなり、大正期には石炭船や帆船運送業、行商船、陸での商売、工場労働者への転業等が進んだ。さらに、明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育の徹底の方針のため政府から規制され、漁業権の手続きでも取り残されていった。そして、昭和40年頃には陸上への定住を余儀なくされて「夫婦船」による漁業が急速に消滅したと言われている。 戦争での軍事徴用 一方、日中戦争(1937年(昭和12年)~)では、国策上では食糧増産が使命であったが、愛知県の約100隻の大型打瀬船が揚子江での運搬のため軍事徴用され、そのほとんどが無傷で帰国したとのことである。太平洋戦争(1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年))でも、同県の漁船がフィリピンの作戦で軍事徴用されたが、漁民・漁船ともに帰らなかったとのことである。
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