各地の石工、石材業との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 20:09 UTC 版)
「泉州石工」の記事における「各地の石工、石材業との関連」の解説
泉州石工の広範な地域にわたる活動の痕跡としては、現在、日本の石材工芸の三大産地は愛知県岡崎、香川県庵治・牟礼、茨城県真壁とされるがその内、岡崎市石屋町通りと現在の香川県高松市の庵治町・牟礼町の石材加工業は泉州の石工がその地方に移住したことに始まると言われている。宮城県仙台市に伝わる伝統芸能すずめ踊りの伝承者であり、仙台城の築城の時からの石材業者であるといわれる黒田家も仙台市稱楊山稱覚寺境内にある初代、黒田屋八兵衛の墓石に泉州日根郡と刻まれていることから、和泉国鳥取荘黒田(阪南市)出身の石工の末裔と考えられる。 泉州石工の出稼ぎと移住の時期について言えば、岡崎では近世初期の岡崎城の修築、仙台では同じく近世初期の伊達政宗による仙台城築城をきっかけとしたとされるが、庵治・牟礼の場合は文化11年(1814年)、高松藩(当時の藩主は松平頼儀)による屋島東照宮の造営によるものであり、200年もの年代差があり、非常に長期間にわたって広範囲に泉州地方から石工の出稼ぎが行なわれたことを示している。 江戸で活躍した泉州出身の石工としては江戸本材木町の石屋半四郎の存在が知られる。半四郎は日根郡樽井村の出身で宝永年間に地震で大破した郷里の専徳寺の再建に多額の資金を寄進している。この他に同じ日根郡の鳥取郷自然田村の宗門改帳によると享保13年(1728年)に江戸の八丁堀および弓町、柳原町に同村からだけで16名の石切(石工)の出稼ぎが出ているのが記録されている。江戸における相次ぐ大火や地震のせいか現在の東京都内には泉州石工を名乗る石工の作品の存在は知られていないが、これは、むしろ彼らが八丁堀の江戸石工の組織に既に所属しており、江戸においては泉州石工を名乗らなかったからと考えるべきだろう。その代わり、和泉屋仁右衛門 和泉屋善六、和泉屋太郎介など和泉屋の屋号を使った石工達の名を刻んだ狛犬、石灯篭、石塔などが散見されるようである。(最近、関東地域の石造物、とくに宝篋印塔を対象とする考古学的調査、研究によってこの地域の石塔が17世紀初めに関西系の形式に一変していることが明らかにされた。それによると、それまで関西の高野山などに集中して造立されていた和泉砂岩製宝篋印塔が、この頃、江戸に搬入されるようになり、間もなく江戸周辺地域において、それを模倣した伊豆安山岩製の石塔が造られ、やがてこれに、一部北関東の石塔の形式の要素を取り入れた石造塔、江戸形式塔と呼ばれる独自の形式が成立したとしている。また、この江戸形式塔は以後、大名や旗本の墓石として用いられ、これまでにない広域の分布を見せることとなったと言う。)同じ宗門改帳によると延享4年(1747年)以降には大坂西横堀に10名以上の石切の出稼ぎが継続されており、近世大坂の石工業の発展にも彼らが関わったことを示唆している。
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