出稼ぎから定住へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/21 12:15 UTC 版)
「スティーブストン」の記事における「出稼ぎから定住へ」の解説
1897年に本間留吉を総理(団体長)として日本人漁師の互助組合「フレーザー河日本人漁師団体」ができ、これは1900年に州の認可を受けて「フレーザー河日本人漁者慈善団体」となった。当初3400人余りが加入していたこの団体は、会員を英国国籍取得者に限り、1908年「スティブストン漁者慈善団体」と改めた。漁者団体は病院や学校・寺院など日系人社会の公的施設を運営するとともに、缶詰工場との交渉をおこなう労働組合としての性格も持っており、また地元白人社会による日系人排斥運動や州政府による排斥政策(漁撈ライセンスの削減など)に対処する役割を果たした。スティーブストンの日系社会の指導者の一人だった吉田慎也は1927年に「ステブストン農産会社」を設立し、農業にも事業を広げた。 この村には、カナダへの日本人移民史の多くの足跡が残されている。及川甚三郎は1896年にスティーブストンに来て事業を営んでいたが、1906年、郷里の人々83名を率いて貨物船水安丸でカナダへの密航を果たし、のちにフレーザー川の中洲(スティーブストンからは離れた場所にある)で開拓事業を行った。 第二次世界大戦は、スティーブストンの日系人コミュニティに深刻な打撃を与えた。1941年12月7日(現地時間)、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したのを契機にまず日系人の漁船がカナダ海軍に接収され、ついで土地・家屋などの財産も没収されて、日本への帰国か内陸の収容所への移住かを迫られた(日系カナダ人#抑留)。これによりスティーブストンの日系人コミュニティは一旦消滅した。
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