漁撈
漁撈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 22:08 UTC 版)
漁撈の対象としては主に蛸壺漁で獲られ、イイダコ用の蛸壺は大きな二枚貝の貝殻、または、それを模したプラスチック製の貝殻が用いられる。 日本では、イイダコ漁専用と思われる小型の蛸壺が古く弥生時代や古墳時代の地層から発見されている。現代におけるイイダコの蛸壺漁は、瀬戸内海沿岸および九州西部のものがよく知られている。
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漁撈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:59 UTC 版)
海に丸木舟を漕ぎ出し、離頭銛でタンヌㇷ゚(tannup イルカ)、エタㇱペ(etaspe トド)、トゥカㇻ(tukar アザラシ)、ウネウ(unew オットセイ)などの海獣やシリカㇷ゚(sirkap メカジキ)、キナポ(kinapo マンボウ)、サメ(same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki ニシン)、サマンペ(samampe カレイ)、イワシ(iwasi)、エレクㇱ(erekus タラ)、チマカニ(cimakani カジカ)、コマイ(komay)、トキカㇻ(tokikar チカ)、ウッタㇷ゚(uttap カスベ)などの小型魚類をとった。 巨大なフンペ(humpe 鯨)は丸木舟や銛で仕留めることが難しいため、海岸に漂着する「寄り鯨」は大変な自然の恵みだった。白老から日高支庁にかけての地域には、盲目の老婆が寄り鯨を見つけて村人と喜びつつ分け合う様を表現した寸劇「鯨踊り」が伝わる ほか、北海道各地に伝説がある。 沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。(室蘭市イタンキ浜の地名伝承) 砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。(浦幌町厚内の砂鯨伝説) 上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが窺える。ただ、波の静かな噴火湾では古くからトリカブトの毒を塗った銛による捕鯨が行われていた。 沿岸部のコタン(kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて場所請負制によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった。 川漁では釣り、網漁、「ウライ」(uray 簗)、」「ラオマㇷ゚」(raomap 筌)などの方法でカムイチェㇷ゚(kamuycep サケ)、イチャニウ(icaniw マス)、スプン(supun ウグイ)、トゥクシㇱ(tuksis アメマス)、チライ(ciray イトウ)、ユペ(yupe チョウザメ)、スサㇺ(susam シシャモ)、イチャンコッ(icankot ヤマメ)、チポロケソ(ciporkeso イワナ)、ランパラ(rampara フナ)などの魚類を捕獲した。 川の漁で得られる恵みでは、秋になれば川を遡るサケ(鮭)が最も重要な資源だった。アイヌは鮭を「カムイチェㇷ゚」(神の魚)、あるいは「シペ」(本来の食物)と呼び、漁期が近づけば天空の天の川を見上げて「天の石狩川」「天の天塩川」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った。白老、登別では春先にコブシが下向きの花を付け、漁期に頭がハゲた「パㇱクㇽ」(カラス)を見れば、豊漁の兆しとして喜んだ。豊漁祈願として川の神を祀る祭礼「ペッカムイノミ」(川神への祈祷)を催し、鮭が登りやすいように川の周辺から苦い樹液の樹木を取り除く。やがて最初に上って来た鮭を「マレㇷ゚」(回転式の銛)で丁寧に捕獲し、それを神に捧げる「アシリチェップノミ」(asircepnomi 新たなる鮭の祈祷)を行い、「イナウ」(inaw)と「トノト」(tonoto どぶろく)と共にアペフチ(火の女神)に捧げて祈った。 鮭は回転式の銛「マレㇰ」で突くか、「ウライ」(簗)で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、鮭を追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた。天空のW字型をしたカシオペヤ座は2艘の舟と網に似ていることから、アイヌは「ヤーシ・ノカ」(網曳き形の星)と呼ぶ。暴れる鮭はそれ専用に作られた神聖な棍棒「イサパキㇰニ」(isapakikni)で打って止めをさす。これには活け締めと同等の効果があるとされる。鎌などで引っ掛けることは神を冒涜するものとされた。漁期には物忌みが守られ、生理中の女性は川に近づくことを許されなかった。サケは河口のコタンで独り占めはせず、上流部へも行き渡る様に節度を持って獲る。そしてチポㇿ(筋子)やウㇷ゚(白子)を持った美味い鮭を狙うのではなく、産卵を終えて弱った鮭「ホッチャレ」を重点的に獲った。これは翌年以降の鮭の個体数を保つためという理由もあったが、脂肪が抜けきった「ホッチャレ」のほうが保存に向くという事情も大きい。 こうして獲られた鮭は、一部を当座の食用に回す他は全て保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥(干物)させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げて燻製にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる。乾燥サケを「サッ・チェㇷ゚」(satcep 乾いた魚)、もしくは「アタッ」(atat)と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む。凍らせた鮭が、現在の北海道で郷土料理として有名な「ルイベ」(ruype)である。食べる際は「マキリ」(makiri 小刀)で大まかに切り分け、ヤナギの串に刺してから火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる。塩は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、新巻鮭は存在しない。 北海道各地に「熊牛」「熊石」などの地名があるが、これらはアイヌ語の「クマ・ウㇱ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が窺える。 海浜採集でホタテ、アサリ、ホッキ、ナマコ、コンブ、ワカメなど、魚介類や海藻類が採集された。特に昆布やナマコは長崎貿易で日本側が俵物として清国に輸出する貴重な物産であり、和人との交易品として重要だった。しかし17世紀半ば以降の交易は不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった。
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