漁撈の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる。前述したように、縄文時代の遺跡からは、貝殻や魚の骨などが発見されており、タンパク源に占める琵琶湖産の魚介類(特にコイ科)の比率は哺乳類よりも高かったと考えられている。また、漁網用と推測される石錘・土錘も出土しており、漁具とともに出土した丸木舟も漁労に用いられたと推定される。稲作が開始された弥生時代には、魚類が水田を産卵場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり魞(エリ)や筌といった小型陥穽漁具による待ちの漁法が発達し、タンパク源に占める魚介類の比率はさらに高まった。古墳時代には土錘が増加・多様化し、また麻網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる。 その後中世ごろには網漁が発達しており、従来河川や内湖(ないこ)で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の13世紀ごろであると考えられる。2017年現在用いられている漁法の内、アユ沖掬い網漁(1960年代に導入)を除く漁法の原初形態は、中世にはすでに存在していたと考えられる。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった。このころまでに漁撈をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある。一方13世紀は、仏教思想が庶民の間にも広まり殺生を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている。 近世の17世紀ごろには、淡水魚である鯉から海水魚である鯛に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀から19世紀にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる。明治以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、大正・昭和期には、テナガエビとワカサギが移入され、漁獲対象種に加わった。また、大正末ごろには内湖(ないこ)の平湖と柳平湖(草津市)を発祥の地とする淡水真珠の養殖が開始されたが、第二次世界大戦後は内湖(ないこ)と琵琶湖が切り離されたことなどによる水質悪化により衰退した。漁獲量は1957年には1万300トンに達したが、その後減少し続け、2012年にはピーク時の10分の1の1029トンにまで減じ、魚種の構成もアユが40パーセントを占めるようになるなど大きく変化している。また、1956年には29種の漁具が用いられていたが、2015年には8種にまで減少している。前述の外来種(特にブルーギル)の侵入は魞漁の主漁場である推移帯(英語版)の生態系の撹乱を引き起こし、漁業者の生活を脅かしている。
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