出立王子
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「九十九王子 (田辺市・上富田町)」の記事における「出立王子」の解説
出立王子(でだちおうじ)は、芳養王子を発ち、古道を南下して国道42号および紀勢本線沿いに進み、天神崎を過ぎた会津川河口手前の上野山台地の中腹南側にある。田部(たべ、たのべ)王子(後の「たなべ」)とも呼ばれた。前出の『田辺領神社書上帳』によれば本地仏は十一面観音とされる。 『中右記』天仁2年(1109年)10月22日条に「次行田之陪、於王子社又奉幣」とあり、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月12日条には「出立王子」、『民経記』承元4年(1210年)4月27日条に「田部王子」とある。 当地での塩垢離(潮垢離)の儀式は特に重視された。塩垢離とは「海水を浴びて身の穢れを祓う儀式」のことで、中辺路へ向かう者は塩水を浴び、海に別れを告げた。 この儀式が行われたのは、田辺市江川町の西方海浜で、古くは「塩垢離浜」、「出立浜」と称された。中世の参詣記に「塩古利」(『中右記』)、「塩コリ」(「熊野道之間愚記」)、「潮御浴並御禊」「浴潮」(『民経記』)などとたびたび登場する。その後も『熊野縁起』参詣之間作法条に、この儀式の由緒を役行者の熊野詣に求める記述や、応永34年(1427年)の『熊野詣日記』8月25日条などにも見られる。しかし、この頃の史料からは、先達らにとっても儀式の意義や作法が不確かになっている様子が分かる。 中世熊野詣の頃の鎮座地は定かではないが、江戸時代にはおおむね会津川河口付近にあったと見られる。1872年(明治5年)に村社に列格されるが、1907年(明治40年)に田辺市元町(現在の田辺市上の山)の八立稲(やたちね)神社に合祀され、以来同神社の境外摂社である。かつては社地が土塀で囲まれていたが、1968年(昭和43年)に近隣の小学校の改築工事の際に、工事車両の乗り入れの障害になるとして取り壊され、後にブロック塀にて再建されたため、古い土塀はわずかしか残されていない。かつて潮垢離で使われていた浜も1920年(大正9年)から1921年(大正10年)にかけて埋め立てられて公園になり、跡地に「潮垢離浜旧跡」碑が建っている。王子社址は和歌山県指定史跡(1958年〈昭和33年〉4月1日指定)。 社祠 「潮垢離浜旧跡」碑
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