民経記とは? わかりやすく解説

民経記〈自筆本/〉

主名称: 民経記〈自筆本/〉
指定番号 116
枝番 00
指定年月日 1989.06.12(平成1.06.12)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 48
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文:  『民経記』は、鎌倉時代公卿であった民部卿藤原経光一二一二七四)の日記で、『経光卿記』とも呼ばれている。記主の経光は、治部権少輔左右大弁蔵人頭経て仁治二年(一二四一)に従三位昇り以後権中納言民部卿等を歴任した。この経光の家は、父頼資の時に勘解由小路号し、後には広橋称している。
 本巻はもとは広橋家伝来したもので、経光自筆本四十八巻の他に、その子孫である兼仲、光業等の写本六巻、一帖、三冊(鎌倉後期江戸前期)を含んでいる。所収記事は、経光が叙爵された直後嘉禄二年(一二二六)四月一日より、断続して経光が五六歳、正二位民部卿であった文永五年(一二六八十一月十六日までである。自筆原本のうち本記は四十二巻で、これは暦記七巻と、文書を飜した料紙書かれたもの三十五巻の二種に分けられ別記寛元三年一二四五)十一月十二月大仁王法参仕記等六巻を存している。
 体裁各巻ともほぼ同一巻子装になり、暦記を除く各巻料紙は、いずれも文書を飜して用いたもので、大部分天地に横墨界施しているが、暦記では間明きの行数異な各種具注暦用いている。本文には首付、頭注、墨訂正傍注のほか裏書などもみえ、各巻の末に経光をはじめ光業等の奥書を記すものも多い。
 各巻の内容は、経光の経歴反映して当時朝儀関白動静等を明らかにし、特に経光の蔵人時代記事収めた巻が数多く現存している。たとえば伊勢公卿勅使発遣や、近衛家実の女長子鷹司院)の入内に関する記事詳細で、時に社会情勢にかかわる記述みられる
 また、これらのなかには、本記に同時期の暦記と、文書を飜した料紙書かれ日次記併存するものが四例あり、日記作成あり方考える上に注目される。さらに、各巻紙背【しはい】にはほとんど文書存し、父頼資宛て書状をはじめ申状院庁下文補任状等、多岐にわたっている。
 このように本巻は、記主経光の自筆本多数存し鎌倉中期朝儀貴族社会様相等を明らかにして貴重である。

民経記

読み方:ミンケイキ(minkeiki)

分野 日記

年代 鎌倉中期

作者 広橋経光


広橋経光

(民経記 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/22 16:40 UTC 版)

 
勘解由小路 経光
(広橋 経光)
「右小弁(花押)」
『徳禅寺文書』より
時代 鎌倉時代中期
生誕 建暦2年(1212年[1]
死没 文永11年4月15日1274年5月22日
官位 正二位権中納言民部卿
主君 後鳥羽上皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 広橋家
父母 父:広橋頼資、母:源兼資女
兄弟 経光、信光、世尊寺経朝、頼誉、頼源、兼恵、頼尊、皇后宮内侍
養兄弟:頼円頼舜
藤原親実女
兼頼兼仲、経子(護良親王母の民部卿三位か?)
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広橋 経光(ひろはし つねみつ、正字体:廣橋經光)は、鎌倉時代中期の公卿正二位権中納言民部卿。「広橋」は後にこの家が室町時代になってから名乗った家名を遡及して適用したもので、本人は勘解由小路 経光(かでのこうじ つねみつ)と名乗っていた[1]。権中納言広橋頼資の長男。日記『民経記』(みんけいき、『経光卿記』)の著者。

来歴

以下『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容を記述する。

建保6年(1218年)11月16日春宮蔵人に補される[注 1]承久3年(1221年)1月9日穀倉院学問料、4月20日蔵人に補される[注 2]、7月9日蔵人を止められる[注 3]。承久4年(1222年)1月6日文章得業生となる[注 4]貞応2年(1223年)1月27日因幡少掾を兼ね、2月7日献策[注 5]、同9日に判があり、3月1日叙爵、 4月7日治部少輔に任じられる。嘉禄2年(1226年)7月7日昇殿を許される。安貞2年(1227年)4月20日従五位上に昇叙、9月16日蔵人に補される。寛喜元年(1229年)10月5日、正五位下に昇叙[注 6]。寛喜3年(1230年)10月28日春宮権大進を兼ねる。貞永元年(1232年)10月4日、蔵人に補される[注 7]

天福元年(1233年)1月28日右少弁に任じられ[注 8]、治部少輔を止めて蔵人は元の如し、12月15日には右衛門権佐を兼ね蔵人と右少弁は元の如し。天福2年(1234年)4月2日三職(蔵人、右少弁、右衛門権佐)を辞す。嘉禎2年(1236年)2月30日服解[注 9]、5月6日復任、12月19日に左少弁に任じられる。嘉禎3年(1237年)1月24日権右中弁に転任し従四位下に昇叙。嘉禎4年(1238年)閏2月27日右中弁に転任、3月29日に従四位上に昇叙し[注 10]、4月6日造東大寺長官に補され、同20日には左中弁に転任、同29日に卒分等勾当となし、5月23日には左宮城使となし、7月20日には右大弁に転任、造東大寺長官と左宮城使は元の如し。延応元年(1239年)1月24日に阿波権守を兼ね、同27日に正四位下に昇叙、11月6日には蔵人頭に補される。

仁治2年(1241年)2月1日参議となり左大弁に転任、同8日には勘解由長官を兼ね、10月13日に従三位に叙される。仁治4年(1243年)2月2日に讃岐権守を兼ねる。寛仁2年(1244年)1月5日正三位に昇叙。宝治元年(1247年)12月8日権中納言に任ぜられる。宝治2年(1248年)10月29日権中納言を辞し従二位に昇叙。建長7年(1255年)1月5日正二位に昇叙。

文応元年(1260年)9月8日、民部卿に任じられる。文永11年(1274年)4月15日民部卿在任のまま薨去。

『民経記』の記者

経光が残した日記『民経記』(『経光卿記』)は鎌倉時代初期の政情を知る上で重要な一級史料で、経光が数え15の時からの自筆原本が残っていることでも知られる。特に『続古今和歌集』成立に関しての詳細な記述がある[注 11]

系譜

補注

注釈

  1. ^ 懐成親王(後の仲恭天皇)立坊による。
  2. ^ 春宮受禅による。
  3. ^ 承久の乱により仲恭天皇が廃位されたため。
  4. ^ この時、上臈の範氏と俊賢を越えた。
  5. ^ 式部大輔忠倫が問を行った。
  6. ^ 北白川院御給による。
  7. ^ 先帝の蔵人だが、春宮権大進を止めて補される。
  8. ^ 父頼資が権中納言を辞しての挙任。
  9. ^ 頼資の薨去による
  10. ^ 春日大社への行幸時奉仕による。
  11. ^ 九条基家が父良経の例にならって『続古今集』の仮名序を書くよう命が下ったことなどが詳述されていることから、経光が当時の歌壇の内情に詳しかったと藤川功和は論じている[2]

出典

参考文献

  • 黒板勝美・国史大系編集会 編『公卿補任』(新訂増補国史大系)、吉川弘文館 - 仁治2年(1241年)に経光が参議となって以後の記事
  • 黒板勝美・国史大系編集会 編『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)、吉川弘文館 -「藤原経光」の項
  • 石田祐一「藤原経光」『国史大辞典』、吉川弘文館、1997年。 
  • 藤川功和「藤原経光と『民経記』」、広島大学大学院文学研究科論集 第64巻。 
  • 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』、東京大学出版会


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