応仁の乱と各守護の下向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 14:29 UTC 版)
そもそも室町時代においては、多くの守護大名は在京義務が課せられ京都に常駐していた。そのため守護大名が守護に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、上洛は珍しい事でもなかった。しかし、応仁の乱により幕府に守護大名の動きを制御する力が無い事が明白となり、在京の意味は薄れていた。 文明9年(1477年)、応仁の乱の終結とともに西軍は解体され、周防国守護大内政弘などの西軍諸将はそれぞれの領国に帰国を開始したが、能登国守護畠山義統と、足利義視・足利義稙親子を伴って帰国した美濃国守護土岐成頼は、それぞれ京の自邸を焼き払って反逆の姿勢を示し(これは在京義務の放棄も意味するものであった)、この炎は仙洞御所にも類焼が及んだ。また、講和に反対し先に下向した西軍の畠山義就は、その後も河内国と大和国で戦闘を繰り広げた。同じく最後まで講和に反対した東軍の加賀半国守護赤松政則は、加賀ではなく浦上氏が待つ播磨国に下向し実効支配を行なった。 また、応仁の乱の最中には越前国の朝倉氏、尾張国の織田氏、安芸国の武田氏、播磨国の浦上氏、出雲国の尼子氏など、領国の守護代や分郡守護が調略の対象となった。これらの調略により、特に山名氏と斯波氏の領国は深刻な事態に陥っていた。このため、東軍、西軍を問わず、多くの守護大名は危機感を持って帰国し、そして在京義務は放棄され、上洛は稀なものとなった。なお、関東については室町幕府の支配は、享徳3年(1454年)の享徳の乱の収拾に失敗し、既に頓挫していた。
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