応仁の乱と最期とは? わかりやすく解説

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応仁の乱と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:08 UTC 版)

山名宗全」の記事における「応仁の乱と最期」の解説

寛正6年1465年)に男子出産した足利義政正室日野富子は、実子足利義尚将軍職望み宗全に接近する文正元年1466年)には勝元共謀して政所執事伊勢貞親季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就上洛させ、将軍対面させる応仁元年1467年)には畠山政長失脚して管領山名派の斯波義廉となる。さらに御霊合戦では義就に加勢し、政長を駆逐させる。勝元巻き返し図り5月には宗全と対立する赤松政則播磨侵攻したのをはじめ是豊も備後侵攻双方散発的な衝突起こり5月26日の上京の戦いきっかけ応仁の乱始まった。 宗全は出石此隅山城各国から集結した西軍率いて挙兵し京都進軍する当初室町亭の将軍らを確保した勝元率い東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘合流し一進一退状況になる。文明3年1471年)に小倉宮血を引く西陣南帝擁立したが、程なく放逐された。文明4年1472年)には和平交渉行われたが、赤松政則抵抗などで失敗5月には宗全は自害試みている。 応仁の乱の頃の宗全は60越え老齢のためか、若い頃剛毅性格はあまり見られなくなった文明2年1470年6月には宗全が東軍降参する、あるいは副将格の大内政弘赦免望んでいるという奇妙な噂も流れ西軍結束力乱れ起こった西軍擁立した足利義視畠山義就不和生じ8月には山名一族山名教之東軍転じたという噂も流れたという。 このような事態のためか、文明4年1472年8月に宗全は家督を政豊に譲っている。これは嫡子の教豊は応仁元年死去していたためである。 応仁3年1469年)、東軍西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て敵兵追い払ったという記録がある(『応仁別記』)。しかし年齢による衰え隠しようもなく、文明2年には重度中風冒され自筆もできずに花押印使用していた。またこの頃は宗全が和平望んでいるという噂が頻繁に流れたという。 文明5年1473年1月一族の最重鎮だった教之が死去後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死した。享年70先年切腹未遂起こした時の傷が悪化したのが原因とも言われているが、詳細不明墓所京都市左京区南禅寺京都五山塔頭真乗院(〒606-8435 福地町86-11)。

※この「応仁の乱と最期」の解説は、「山名宗全」の解説の一部です。
「応仁の乱と最期」を含む「山名宗全」の記事については、「山名宗全」の概要を参照ください。

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