応仁の乱と最期
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寛正6年(1465年)に男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。文正元年(1466年)には勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。応仁元年(1467年)には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに御霊合戦では義就に加勢し、政長を駆逐させる。勝元も巻き返しを図り、5月には宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こり、5月26日の上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まった。 宗全は出石此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。当初室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。文明3年(1471年)に小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐された。文明4年(1472年)には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている。 応仁の乱の頃の宗全は60を越える老齢のためか、若い頃の剛毅な性格はあまり見られなくなった。文明2年(1470年)6月には宗全が東軍に降参する、あるいは副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こった。西軍が擁立した足利義視と畠山義就の不和も生じ、8月には山名一族の山名教之が東軍に転じたという噂も流れたという。 このような事態のためか、文明4年(1472年)8月に宗全は家督を政豊に譲っている。これは嫡子の教豊は応仁元年に死去していたためである。 応仁3年(1469年)、東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払ったという記録がある(『応仁別記』)。しかし年齢による衰えは隠しようもなく、文明2年には重度の中風に冒されて自筆もできずに花押印を使用していた。またこの頃は宗全が和平を望んでいるという噂が頻繁に流れたという。 文明5年(1473年)1月、一族の最重鎮だった教之が死去、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死した。享年70。先年に切腹未遂を起こした時の傷が悪化したのが原因とも言われているが、詳細は不明。 墓所は京都市左京区の南禅寺(京都五山)塔頭の真乗院(〒606-8435 福地町86-11)。
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