応仁の乱、亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:50 UTC 版)
「応仁の乱」も参照 1月18日、畠山氏の家督争いが発端となり、「御霊合戦」が発生した。義視は義政とともに畠山義就を支援するようになり、畠山政長を支援する勝元の面目を失わせた。2月24日、義視は両軍に和睦を呼びかけているが失敗に終わった。5月26日には細川勝元らの東軍と、山名宗全らの西軍の戦闘が発生した。義政は畠山義就に軍の撤退を求めているが、「今出川も同意見である」と記している。義視は義政・富子・義尚らとともに東軍に属し、6月には牙旗を下され主将となった。義視は東軍から山名氏の縁者を追放し、山名方に通じたとして奉行衆飯尾為数を誅殺している。5月に義政が失脚していた貞親を伊勢から京都に呼び戻したため孤立した。8月22日に西軍の大内政弘が上洛したが、その日の夜と入れ替わるように京都から出奔した。『応仁別記』には、一時的に今出川殿に赴いていた義視が帰陣しようとしたが、京極持清の家臣多賀高忠に阻まれたと記されている。同日には東軍内で西軍方と見られたものが勝元によって粛清されている。義視は北畠教具を頼って伊勢へ下向した。 翌応仁2年(1468年)には、西軍と古河公方足利成氏との間で攻守同盟が結ばれているが、伊勢にいた義視はこれを承認している。9月22日には義政の説得で伊勢から帰洛するが、義兄にあたる日野勝光を激しく非難したほか、義政が9月頃から貞親を起用していたことも、義政との対立に拍車をかけた。11月13日に室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて「公方様」「相公(将軍)」と呼ばれた。義政は激怒し、朝廷に働きかけ義視や側近の官位を褫奪させた上で、朝敵として追討の対象とさせた。文明元年(1469年)には四国・九州の諸大名に軍を率いて上京するよう命じている。 文明5年(1473年)、貞親と宗全が相次いで死去した後の4月23日には一条兼良に進退を相談する書状を送っている、文明8年(1476年)9月14日に義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると政弘と共に交渉を開始した。12月20日に義政に他意のないことを伝える書状を送り、翌文明9年(1477年)5月3日には富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い、7月に娘を富子のもとに送り、猶子としてもらった。しかし義政との溝を埋めることは難しく、西軍が解体された11月11日に子の義材を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した。美濃では承隆寺に滞在していた。翌文明10年(1478年)7月10日に義政に赦免されたが、美濃に留まり続けた。
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