記録など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 23:30 UTC 版)
幕内最高優勝の通算回数は11回で、10回以上優勝したことのある横綱の中で唯一全勝優勝が無かった。1993年9月場所千秋楽では貴乃花に全勝優勝を阻まれた。優勝決定戦には7回出場(4回優勝)。2人の決定戦(1993年11月場所、1997年5月場所、1999年7月場所)、3人の決定戦(1993年7月場所、1994年3月場所)、4人の決定戦(1997年3月場所)、5人の決定戦(1996年11月場所)全てに出場という珍記録の持ち主でもある(さらに、これらの決定戦の出場力士は、結果的に、全員が幕内最高優勝の経験者となった=注釈参照。出島は曙との決定戦勝利が唯一の優勝、貴ノ浪、魁皇、貴闘力も、これ以降に優勝経験あり=)。 また幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もおらず、どのような力士に対しても実力を発揮できたことが窺える。なお貴乃花とは21勝21敗、出島には6勝6敗の五分であった(ただし出島とは優勝決定戦を含めると6勝7敗と負け越しており、一時は決定戦を含め6連敗したこともある)。混戦にも強い傾向があり、3人以上の優勝決定戦出場は史上最多の4回を記録し、その内2回において優勝を果たしている。曙が幕内で負け越して対戦が終わった力士としては大翔山がおり、彼との対戦成績は4勝5敗だった。 同期の若乃花、貴乃花の最大のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じる。特に22回の幕内優勝を成し遂げ、「平成の大横綱」と呼ばれた貴乃花とは一時代を築き上げ「曙貴(あけたか)時代」とも言われた。先述の通り貴乃花との幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と全くの五分であった。 初土俵(序ノ口)から一度も負け越しと休場を経験せずに関脇まで昇進するという偉業を成し遂げている。1991年3月場所に達成した初土俵からの連続勝ち越し18場所は歴代1位の長さであり、記録達成から20年以上経っても破られていない。皆勤出場して負け越したのは1991年5月場所と同年9月場所の2度しかなく、その両場所とも勝ち越しまで後一歩及ばなかった7勝8敗という成績だった。それにもかかわらず、曙は十両以下では優勝経験が皆無だった。しかし、一時代を築いた横綱としては決して珍しいことではなく、過去には玉錦、双葉山、栃錦、北の湖も十両以下での優勝が皆無だった。
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記録など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 08:09 UTC 版)
17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度の2つのパ・リーグタイ記録を持っている。また、2017年現在、阪急・オリックスの生え抜き選手として唯一2000本安打と2000試合出場を記録している。阪急の厚い外野手選手層の中でレギュラーをつかんだ頃、大熊忠義から負傷して休むとポジションを奪われるという忠告を受け、少々の怪我では休まない強靭な体を作ることを意識するようになった。レギュラーだった時代にもフル出場していないシーズンが複数あるが、福本によると監督の上田から優勝後に若い選手に交代するよう求められて、(連続試合出場記録の意識もなく)出番を譲っていたためだという。衣笠祥雄の連続試合出場記録(2215試合)には敬意を示しながらも、記録になると知っていたら「必ず挑戦しとったと思いますね」と述べている。 通算本塁打は208本であり、これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテンに入る選手の中では立浪(171本塁打)に次いで少ない。また、シーズン20本塁打に到達したのも1980年の1回のみである。しかし、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。打撃三冠を取ったことのない選手の中での最多安打記録の持ち主でもある。 現役時代の背番号「7」はオリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっていなかった。1991年ドラフト1位で入団した田口壮に背番号7が打診されたが、田口が固辞している(田口の背番号は6になった)。また、イチローもシーズン210安打を記録した1994年のオフに背番号7への変更を打診されたが固辞している。2001年には本人公認の上で、同年に横浜ベイスターズから移籍してきたばかりであった進藤達哉が背番号7を着けた。進藤が引退した後は日高剛が背番号7を着け、2004年に球団が近鉄と合併してオリックス・バファローズになったことを受け、準永久欠番扱いも失効している。山田が「7と(山田の)17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語ったのを受け、福本は「それと(加藤英司の)10。この3つは今からでも返してほしいね」と語っている。
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記録など
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広島時代は巨人キラーとしても活躍、対巨人戦33勝31敗を記録している。対巨人戦で30勝以上している投手のうち勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、川口の3人だけである。同時に阪神キラーでもあり、1983年には阪神戦3試合連続完封勝利を記録、1987年は5勝0敗、1988年は5勝1敗の好成績を挙げるなど、広島時代だけで巨人戦を上回る通算34勝(21敗)を記録した。また巨人移籍後に阪神から2勝を挙げており、対阪神戦の生涯成績は36勝21敗となる。
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記録など
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オールスターゲームで10イニング以上自責点なしの唯一の投手 メジャーリーグの歴史の中でただ一人、選手、コーチの両方で20年のキャリアを持っている。 1チームでの投手キャリアでハーダーを超えるのは、ウォルター・ジョンソンとテッド・ライオンズのみである。 ジョー・ディマジオは 、他の投手よりもハーダーを苦手にしていた。ディマジオのハーダーに対する生涯打率は0.180であり、1940年には1試合で3三振を喫している。 野球殿堂入りした選手及び有資格者の中で単一の本拠地で20シーズン活躍した唯一の選手。 ハーダーの最初の投球は、1932年のミュニシパル・スタジアムであり、最後の投球も同所である。また、インディアンスがジェイコブズ・フィールドから移転する1993年の最終戦のセレモニーでも投球を行った。
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記録など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:30 UTC 版)
2012年5月場所から同年9月場所にかけて平成以降では単独1位となる3場所連続単独での技能賞受賞を記録している。同じく平成以降単独1位の記録として同一年における技能賞受賞回数の記録が残っており、2012年には3月場所と11月場所を除いて技能賞を4回を受賞している。 全休した2014年9月場所を除く、幕内在位34場所中で初日の成績は10勝24敗。初日が白星だったのは、新入幕だった2011年11月場所・幕内で初の2連勝スタートだった2013年9月場所・2014年5月場所・幕内で初の3連勝スタートだった2014年7月場所・2015年5月場所・2015年9月場所・2016年3月場所・2016年9月場所・2017年3月場所・2017年11月場所の10場所。2012年1月場所から、2度目の三役復帰だった2013年7月場所まで10場所連続で初日が黒星だった(うち7場所は勝ち越し)。逆に、途中休場した2014年1月場所・2017年11月場所・全休した2014年9月場所を除く、幕内在位32場所中で千秋楽の成績は17勝15敗と勝ち越している。
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