記録に残る主な噴火
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685年(天武天皇14年3月:飛鳥時代)『日本書紀』に白鳳地震の5か月後、信濃国(現・長野県)で灰が降り草木が枯れたとする記述がある。浅間山の噴火とされたが、具体的に浅間山と記述されているわけではなく、風向きから寧ろ西方の例えば新潟焼山や焼岳などの噴火の可能性もあるとされる。 1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代) 天仁大規模噴火。噴火場所は前掛山で30億トンと推定される噴出物を伴う大噴火。火山爆発指数:VEI5。上野国(現・群馬県)一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。『中右記』に記録されている。天仁元年9月5日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065年 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年7月21日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展した。この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなった。また、長野県側にも火砕流(追分火砕流)が約15km程駆け下り、湯川、小諸市石峠付近まで達し、山麓の集落が複数埋没した可能性がある。天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされている。最近、12世紀初めの欧州における数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆された 。 1128年 大治3年 大規模なマグマ噴火、噴火場所は前掛山。火山爆発指数:VEI4。 1532年 享禄4年 噴火場所は山頂付近。噴石は火口の周囲 8kmにわたり落下、直径25m 以上の「七尋石(ななひろいし)」が残っている。火山爆発指数:VEI2。 1582年 天正10年 『多聞院日記』『晴豊公記』『日本史』などが、2月11日に浅間山が噴火して、京都からでも観測できたと伝えている。この噴火はちょうど織田信長の軍勢が武田領への侵攻(甲州征伐)を開始してまもなくだったため、武田領国内の国衆や領民は武田勝頼が天から見放されたと考え、この噴火の日を境に武田領国の諸城は織田軍に抵抗することなく陥落していった。 1721年 享保6年 火砕物降下。噴石のため登山者 15名死亡、重傷 1名。火山爆発指数:VEI1。 1783年8月5日(天明3年7月8日) 天明大噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4。4月9日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた。 6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増し、江戸や関西でも戸障子が振動するなどした。 7月6日から3日間にわたる噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。なお7月8日頃の爆発音については京都や四国、広島まで聞こえ、疑わしいが長崎まで聞こえたとする記録もあるという。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現・嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は1624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)、流失家屋 1151戸、焼失家屋 51戸、倒壊家屋130戸余りであった。最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明3年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている。 長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった。最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、1979年(昭和54年)から嬬恋村によって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている。2000年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認された。また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害、天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こした。 この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約10万人の死者を出したと長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に1770年代から起きていることから直接的な原因とは言い切れない。一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(4月13日・天明3年3月12日)したばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火、6月8日)とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇。噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから北半球に低温化・冷害をもたらした。このため既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ事態を悪化させた面がある。「火山の冬#有史時代の事例」も参照。 1938年(昭和13年)6月7日 降灰多量。噴出物総量2×105m3、9月26日13時43分噴煙高さ 8,200m。火山爆発指数:VEI1.3。 1947年(昭和22年)8月14日 噴煙高さ 12,000m、噴石により11名の犠牲者。火山爆発指数:VEI1。 1950年(昭和25年)9月23日午前4時37分に大爆発。登山中の高校生1人が噴石を頭に受けて死亡。降灰は茨城県、埼玉県、東京都にも見られた。爆発音は愛知県名古屋市まで届いた。この噴火により噴出した千トン岩と呼ばれる巨大な岩塊が群馬県側の山頂火口付近に存在する。 1958年(昭和33年)11月10日 午後10時50分、突然大爆発して噴煙が高さ 7,000 - 8,000mに達した。噴出物総量3.6×105m3、火山爆発指数:VEI1。 1973年(昭和48年)2月1日 爆発、小規模な火砕流発生。約1ヶ月前から活発な火山性地震を観測(1月13日、14日合計150回超)し、5月24日まで微噴火まで合わせ87回の噴火と活発な活動が続いた。火山爆発指数:VEI2。 1983年(昭和58年)4月8日 爆発、福島県の太平洋岸でも降灰を観測。火山爆発指数:VEI0.9。 2004年(平成16年)9月1日 20時20分頃噴火確認。小康状態の後、9月14日 - 18日にかけて、及び9月23日には中規模の噴火。11月14日以降噴火は観測されず。火山爆発指数:VEI1。 2008年(平成20年)8月10日 小規模噴火を確認。 2009年(平成21年)2月2日 噴火確認。関東平野の広い範囲に10g/m2 - 50g/m2の降灰。ウィキニュースに関連記事あり。火山爆発指数:VEI1。 2015年(平成27年)06月16日 午前9時30分頃、空振を観測しない程度の小規模噴火。北から北東にかけて微量の降灰を確認。 06月19日 17時頃ごく小規模な噴火が発生。 2019年(令和元年)08月07日22時08分頃、小規模噴火。同日、浅間山に火口周辺警報(噴火警戒レベル3(入山規制))を発表。 08月25日19時28分頃、噴火
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