記録に残る全国の藤織り、あるいは藤布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:46 UTC 版)
「藤織り」の記事における「記録に残る全国の藤織り、あるいは藤布」の解説
岐阜県高山市近郊では、弘法大師(空海)の法衣が藤布であったことから、俗人は畏れて、衣服に藤を用いることを慎んだと伝わる。そのような信仰上の理由を除けば、藤織りは山間部の多くの村落で生活の一部として、また、貴重な現金収入の手段として、おもに女性の生業であった。 21世紀初頭において、技術の継承は途絶えたものの、文献や現物による藤織りの痕跡が残る地域は、全国に101地点以上確認されており、その保存や復活に向けた活動も複数存在している。 なお、藤織りの痕跡は必ずしも明確であるとはいえず、藤を採取して藤織りをするとともに生産した藤布を消費した地域、藤織りはしたが販売用とされて自らは消費していない地域、藤織りは行っていないが他地域から仕入れて使用した地域と、多様であり、そのいずれかは不明ながら藤布が残されている地域もある。そのため、本項では、明確に藤を採取して布を織ったとされる地域を「藤織りをした」と記し、藤織りをしたかどうかは定かでないものの藤布を用いたことが明らかな地域を「藤布を使用した」と記し、そのいずれか、あるいは両方であるか不明だが記録の残る地域を「痕跡が残る」と述べた。
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