記録におけるハマト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:28 UTC 版)
「ハマー (都市)」の記事における「記録におけるハマト」の解説
聖書におけるハマー(ハマト、ハマテ Hamath)の記録は少ないが、ハマトはカナン王国の都と述べられ(列王記下23:33)、ダビデがツォバの王ハダドエゼルを破ったことをハマトの王トイが祝福し(サムエル記下8:9-11)、アモス書では預言者アモスが「ハマト・ラバ」の王国について言及している。おそらくハマトはフェニキア語で要塞を意味する「khamat」が語源であろう。アッシリア王国は紀元前8世紀末にハマトを征服した。 アッシリアのシャルマネセル3世(紀元前858年 - 紀元前824年)の治世、シリア北部を征服したアッシリアは紀元前853年にハマトに接近した。これがハマト王国がアッシリアの資料に登場する最初である。アッシリアの碑文によれば、ハマト王イルフレニとアラム(ダマスカス)王イム=イドリ(ハダドエゼル)はアッシリアの脅威に対しシリアの諸都市の王たちとの同盟をまとめた。シリアの諸王の同盟軍は、カルカル(Qarqar)の砦の近くで4,000の戦車、2,000の騎兵、62,000人の歩兵と1,000人のアラブのラクダ騎兵を以てアッシリア軍と戦った(カルカルの戦い)。アッシリアはこの戦いを「大勝利」とし、さらに海岸へ進出し船で海に出たともしているが、この後シリアを征服した痕跡は見られず、碑文には翌年以降にハマトとアラムの征服を企てたが失敗したと書かれているなどカルカルでの「大勝利」とは矛盾があることから、実際には引き分けと見るべきものである。シャルマネセル3世の死後、敵を失ったハマトとアラムの同盟は崩壊し、アラムとハマトやイスラエルなどとの間で戦いが起こっている。アラムはハマトから領土の一部を勝ち取ったとみられる。 ハマトと La'ashの王ザキル(Zakir)の残したアラム語碑文では、アラム王ハザエルの子ベン・ハダド3世とその同盟軍がハマトを襲ったとしている。ザキルはハズラク(Hazrak)の砦に籠城したが、バアル・シャミン(Be'elschamen)の神の助けで救われたという。後にはジャウディ=サマル(Ja'udi-Sam'al)がハマトとアラム双方を支配した。 紀元前743年、アッシリアを再興し新アッシリアの時代を開いたティグラト・ピレセル3世はシリアに侵入、ハマトの領域にある街をいくつか征服したがハマトは征服を免れた。しかし、紀元前738年にアッシリアが征服した街の中にハマトの名がみられる。被征服民を強制移住させる捕囚政策により、ハマト近郊のシリア人3万人以上がザグロス山脈方面に移住させられた。 紀元前605年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世はシリアを征服し、カルケミシュ(Carchemish)にいたエジプトの守備隊の生き残りをハマトで皆殺しにした。紀元前554年から553年にかけてハマトは新バビロニア最後の王ナボニドゥスの遠征を受けた。 マケドニア王国がオリエントを征服しセレウコス朝がシリアを支配した時代、ハマトはアンティオコス4世エピファネスを讃えるためにエピファニア(Epiphania)と改名された。しかしアラム人住民は古い都市名を使い続けた。アキラやテオドレトスらはエマト=エピファニア(Emath-Epiphania)と呼んでいる。セレウコス朝の後、ハマトはローマ帝国とビザンティン帝国の支配下に置かれ、シリア属州の一部となった。
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