室町時代における文車の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/03 06:47 UTC 版)
室町時代に入ると、文車は衰退していくようになる。その原因の1つとしては公家政権の政治機能及び宮中儀礼が衰微・形骸化したことにより、武家政権の時代に入っても公家政権の内部において続けられてきた時代に応じた公事・儀式の変遷や諸家間における有職故実を巡る意見対立が生じる余地が失われたことにある。その結果、先例の蓄積を必要とした時代が終わり、「有職故実の固定化」が進んだために公事・儀式の典拠となる新規の文書の発生・蓄積が緩やかとなり、既存の蔵書・文書の中でも実際に用いられるものが限定的になってきたため、新規の文車の必要性が無くなったことである(これは「日記の家」と呼ばれた公家の家における日記の衰微・変質とも対応する)。更に公家の経済的基盤の喪失によって蔵書・文書や文車の増加・維持を図るための経済的余裕が失われたこと、土倉などの成立によって文庫・文車の代替機能を委託することが可能になったこともあり、公家が大量の蔵書・文書を自前で維持する必要性あるいはその余裕が失われていった。そして、何よりも致命的であったのは、京都で発生した応仁の乱とその後も引き続いて発生した火災・盗難・一揆などによる被害が京都中心部のみならず、公家達が蔵書・文書を退避させた郊外(大原・鞍馬・嵯峨・宇治)などにも被害が及ぶようになり、多くの蔵書・文書が失われていったことである。 文車自体が持つ移動・防災両面における弱点に加えて、14・15世紀における公事・儀式の衰退とこれに伴う有職故実の固定化・限定化、公家社会の経済的な衰退によって大量の蔵書・文書を保存・維持・管理を行う公家の持っていた機能が失われ、応仁の乱とそれに続く社会的混乱が文車に納めるべき蔵書・文書類の多くを喪失させたことによって文車もまた姿を消すことになった。
※この「室町時代における文車の衰退」の解説は、「文車」の解説の一部です。
「室町時代における文車の衰退」を含む「文車」の記事については、「文車」の概要を参照ください。
- 室町時代における文車の衰退のページへのリンク