室町時代から戦国時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
しかし、15世紀-16世紀になると、その様相は変わってくる。例えば「城郭」は、それまでは「かいだてを掻き、さかもぎを引いて」と言う臨時のバリケードと矢を射かけるための櫓であり、恒常的な設備ではなかったのに対し、15世紀以降から恒常的な施設として「城」が築かれるようになる。その早い例は鳥坂城(鶏冠城)、そして常陸の真壁城である。それは平安時代から鎌倉時代のように、戦乱は限られた地方で一瞬起こるものから、全国的、かつ常態となったこと。そしてのそ戦乱の危機を領主達が、逃れられないものとして受け入れた時期とも言える。また、戦法が大きく変化して定着した。エリート騎馬武者による弓射戦など既に昔話でしかなくなっていた。 社会経済の変容も影響をもたらした。農業生産力の発達と流通の拡大によって、百姓身分の層の中からも、加地子収取権を買い取り集め、日常的営農から解放される層が広範に生まれる。その層が、地域の封建領主層に結びついて自らも小領主化して地侍となり、守護大名や国人(旧地頭層)と主従関係を持って年貢の一部免除を受けて合戦時には「寄子」クラスの軍役を務める。 戦国大名が軍事力の裾野として組織していった甲斐武田氏の「軍役衆」、伊達氏の「名懸衆」、毛利氏の「一戸衆」「一所衆」などはみなその類のものである。そして、そうした農村からの小領主層の成長と、その大名・国人との結合が、それまで弱体化されつもかろうじて残っていた荘園制にとどめを刺したといわれる。 「武士団」を単なる一般用語としてではなく、「武士」とは別の歴史用語としてあつかうならば、その範囲は11世紀後半から15-16世紀までの、イエ軍団をその類型として、それが戦国時代の、農村から生まれた「寄子」衆に置き換えられていったとも整理することが出来よう。
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