室町時代から安土桃山時代
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文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429年から1441年)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉三郎が築いたのが初めてである。永正13年(1516年)に小田氏の部将・菅谷勝貞が若泉五郎右衛門を滅ぼし、その家臣(菅谷某または信太範貞)が城に入った。その後、菅谷氏が勝貞、政貞、範政の三代にわたって土浦城を守った。戦国時代に佐竹氏が勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた小田守治が入城した。 戦国時代が終わると、土浦は結城城の結城秀康のものになり、小田氏はその家臣になった。代わって多賀谷政広が城代を務める。慶長6年(1601年)に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の松平信一が土浦城に入った。信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。 昭和61年(1986年)の発掘調査で、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明した。対応する文献が発見されていないので時期や原因を知ることは今のところできない。
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室町時代から安土桃山時代
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15世紀の初め、主家の那須氏が分裂した際には下那須氏に属した。永享11年(1439年)に起きた永享の乱では、関東管領上杉憲実の下で足利持氏の軍を破る活躍をしている。 天文20年(1551年)、千本資俊が主君であった那須高資を千本城にて殺害。これは喜連川五月女坂の戦いで戦死した宇都宮尚綱の仇を討つために、宇都宮家の武将芳賀高定が那須家中の内紛を利用したものであった。那須家では資俊討伐の声も上がったが実行されることはなく、那須家当主となった資胤が、資俊による高資殺害を古河公方足利義氏に謝罪することによってことなきを得た。その後、資俊は治部内山の戦いや大崖山の戦いなどで戦功を挙げた。また元亀3年(1572年)には、佐竹家の佐竹義斯と対談し那須家と佐竹家の和睦を成功させるなど、那須家中において重要な役割を果たした。 資胤の死後、資俊の嫡子である資政が妻であった大関高増の娘と離縁する。これに立腹した高増は、主君の資晴に千本氏を討つことを勧め承認を得ると、資俊・資政親子は烏山に所在する太平寺へおびき出され殺害される。これにより千本氏の血筋は途絶えた。千本氏の遺領の一部は高増とその弟たちに分割され、残りは茂木治清の子である義政に分配された。千本城に入った義政は千本義隆と名乗った。 天正17年(1589年)8月、豊臣秀吉から招集を受けたがこれに遅参する。そのことを咎められ、所領の下野国内30か村のうち23か村を没収された。天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣方として参陣し、秀吉より下野国芳賀郡内2070石を安堵する旨の朱印を賜る。那須家は小田原に遅参したことにより改易、これにより千本氏は独立を果たした。朝鮮出兵の際には名護屋城まで赴いているが渡航はしていない。 慶長5年(1600年)の会津征伐の際には、千本義定が命を受けて黒羽城の加勢に赴いた。このとき300石の加増を受けるとともに、宇都宮にて徳川秀忠より郷義弘の太刀を賜っている。関ヶ原の戦いが起こると、江戸に妻らを人質に差し出し徳川方に恭順の意を示した。 慶長7年(1602年)に、前年の竹貫重光追討の功によって3870石に加増され、大身旗本となった。
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