室町幕府成立後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 室町幕府成立後の意味・解説 

室町幕府成立後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:43 UTC 版)

島津貞久」の記事における「室町幕府成立後」の解説

幕府方復帰した貞久正平17年/貞治元年1362年)に幕府に対して申状送っている。その中で貞久島津荘薩摩大隅日向一帯占め島津氏本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅日向守護職鎮西探題北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性訴えた史実では島津氏比企能員の変処罰され結果として大隅日向守護職没収されたものでその支配はわずか数年過ぎず貞久主張史実ではない。しかし、貞久のこの訴え彼の後継者島津氏一族家臣団共有され後世伝えられ薩摩大隅のみならず日向支配する理論的支柱として用いられた。 正平18年/貞治2年1363年薩摩守護職を三男の師久(総州家)に、大隅守護職を四男の氏久(奥州家)にそれぞれ譲り同年7月95歳の長寿以って逝去両家征西府九州探題今川了俊存在する間は協力し合って外敵あたった共通の敵消滅すると、やがて戦国時代前触れのように互いに勢力を争うようになる

※この「室町幕府成立後」の解説は、「島津貞久」の解説の一部です。
「室町幕府成立後」を含む「島津貞久」の記事については、「島津貞久」の概要を参照ください。


室町幕府成立後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:44 UTC 版)

塩冶高貞」の記事における「室町幕府成立後」の解説

その後室町幕府において出雲隠岐両国守護となり、朝廷官職としても北朝から隠岐守・近江守に任じられた。 室町政権下では、自身統治する出雲発展尽力し出雲国塩冶八幡宮同国島村寄進したり(『出雲大社諸社家所古文書塩冶高貞寄進状建武4年9月9日)、出雲国鰐淵寺北院衆徒軍功幕府推薦したり(『晋叟寺文書鰐淵寺北院衆徒軍忠状建武5年7月18日)するなどの活動行った興国2年/暦応4年1341年3月24日突如として京から出奔する(『師守記暦応4年3月25日条)。同夜、諸将将軍尊氏の弟で事実上幕府最高指導者足利直義邸宅集い桃井直常山名時氏主将として追討軍が発せられた(『師守記暦応4年3月25日条)。直義全国向けて「高貞が陰謀企てた」と公式に宣言し武将伊藤頼明や出雲国鰐淵寺衆徒地方各所にも高貞追討命令発した(『萩藩閥閲録』『鰐淵寺文書』)。進退窮まった高貞は、同月29日までに、影山播磨国神東郡山荘現在の兵庫県姫路市豊富町御影周辺一帯)で自害した(『師守記暦応4年3月29日条および『鶴岡社務記録』)。高貞自刃後、その残党多く幕府軍討ち取られた(『鶴岡社務記録』)。

※この「室町幕府成立後」の解説は、「塩冶高貞」の解説の一部です。
「室町幕府成立後」を含む「塩冶高貞」の記事については、「塩冶高貞」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「室町幕府成立後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「室町幕府成立後」の関連用語

室町幕府成立後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



室町幕府成立後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの島津貞久 (改訂履歴)、塩冶高貞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS