室町幕府成立後
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幕府方に復帰した貞久は正平17年/貞治元年(1362年)に幕府に対して申状を送っている。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。史実では島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたものでその支配はわずか数年に過ぎず、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの訴えは彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、薩摩・大隅のみならず日向を支配する理論的支柱として用いられた。 正平18年/貞治2年(1363年)薩摩守護職を三男の師久(総州家)に、大隅守護職を四男の氏久(奥州家)にそれぞれ譲り、同年7月、95歳の長寿を以って逝去。両家は征西府・九州探題・今川了俊の存在する間は協力し合って外敵にあたったが共通の敵が消滅すると、やがて戦国時代の前触れのように互いに勢力を争うようになる。
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室町幕府成立後
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その後、室町幕府において出雲・隠岐両国の守護となり、朝廷の官職としても北朝から隠岐守・近江守に任じられた。 室町政権下では、自身の統治する出雲の発展に尽力し、出雲国塩冶郷八幡宮に同国の栃島村を寄進したり(『出雲大社諸社家所蔵古文書』塩冶高貞寄進状建武4年9月9日)、出雲国鰐淵寺北院衆徒の軍功を幕府に推薦したり(『晋叟寺文書』鰐淵寺北院衆徒軍忠状建武5年7月18日)するなどの活動を行った。 興国2年/暦応4年(1341年)3月24日、突如として京から出奔する(『師守記』暦応4年3月25日条)。同夜、諸将は将軍尊氏の弟で事実上の幕府最高指導者足利直義の邸宅に集い、桃井直常と山名時氏を主将として追討軍が発せられた(『師守記』暦応4年3月25日条)。直義は全国に向けて「高貞が陰謀を企てた」と公式に宣言し、武将伊藤頼明や出雲国鰐淵寺衆徒ら地方各所にも高貞追討の命令を発した(『萩藩閥閲録』『鰐淵寺文書』)。進退窮まった高貞は、同月29日までに、影山(播磨国神東郡蔭山荘、現在の兵庫県姫路市豊富町御影の周辺一帯)で自害した(『師守記』暦応4年3月29日条および『鶴岡社務記録』)。高貞自刃後、その残党も多くが幕府軍に討ち取られた(『鶴岡社務記録』)。
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