室町幕府将軍家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:14 UTC 版)
足利義満は明徳の乱、応永の乱などで有力守護大名を挑発しては討伐してその勢力を削減し、中国の明王朝から「日本国王」として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどして、幕府の安定化と全盛期を築き上げた。 しかし義満が死去すると次第に将軍権力の弱体化、守護大名の台頭が顕著になって行く。第6代将軍・足利義教は父・義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行なったが、そのあまりに強硬的なやり方は周囲の反発を招き、嘉吉の乱で殺害されるに至って、遂に将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった。 第8代将軍・足利義政の時代には後継問題などをめぐって応仁の乱が発生し、室町幕府は京都だけを支配する一地方政権に転落した。 第10代将軍・足利義稙は管領の細川政元によって将軍職を追われ(明応の政変)、以後の将軍は実権を奪われて名目的存在となり、有力大名の支持なくしては将軍の地位さえ保てなくなった。 その後、足利将軍家では将軍の若死になども相次ぎ、第13代将軍・足利義輝の時代にわずかに将軍権力が復興される兆しもあったものの、永禄8年(1565年)5月に三好三人衆らによって殺害されてしまい、将軍は有名無実化した(永禄の変)。なお、義輝殺害後の3年間、室町幕府では将軍空位の時代が続き、一時的に幕府は消滅している(政所などの官僚機構は存在していた)。 義輝の実弟・足利義昭は、永禄11年(1568年)に織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍となった。この時、14代将軍であった義栄は阿波に逃れた。彼の系統は平島公方家と呼ばれる。やがて将軍の義昭は信長と対立して元亀4年(1573年)に京都を追放(槇島城の戦い)され備後に移り、室町幕府は終焉を迎えた。なお公卿補任は、天正16年(1588年)に豊臣政権が確立し足利義昭が京都で出家するまでは将軍職にあったと記録している。 義昭の子、義尋の男子は全て出家し、足利将軍家の直系は絶家した。なお、義昭の子あるいは孫と伝承される人物に一色義喬や永山義在がいるが、その出自を証明する明確な証拠は現在のところない。
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