足利義輝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 01:48 UTC 版)
永禄7年(1564年)12月以降、足利義輝は戦国乱世のただなかにあって、幕府の重鎮であった三管領の斯波氏の屋敷・武衛陣の跡地に新たな屋敷の建築を開始した。 この御所は当時、「二条武衛陣の御構」と呼ばれていた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。また、御所は勘解由小路烏丸室町間に作られ、二条通との接点を持たないにも関わらず、二条の名を冠している。 永禄8年(1565年)5月19日、三好義継や三好三人衆、松永久通とともに一万の軍勢で二条御所に押し寄せ、義輝に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて侵入した(永禄の変)。御所には堀もあったが、門は完成寸前の状態であった(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)。 義輝は奮戦するも、多勢に無勢であり、遂に討ち取られた。殺戮が終わると、三好軍は二条御所に火をかけ、多くの殿舎が炎に包まれたという。 変後、跡地には真如堂が移された。
※この「足利義輝の時代」の解説は、「二条御所」の解説の一部です。
「足利義輝の時代」を含む「二条御所」の記事については、「二条御所」の概要を参照ください。
- 足利義輝の時代のページへのリンク