足利義維(義冬)のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
阿波国平島[要曖昧さ回避]に逃げ戻った義維は、名を義冬と改めた。 なお、三好元長ら四国に基盤を持つ家臣に支持された義維(義冬)を擁立する主張と柳本賢治・松井宗信・木沢長政ら畿内に基盤を持つ家臣に支持された現実的に世間から支持を得ている義晴との和解を望む主張の対立は細川政権・三好政権を通じて、課題として残された。 元長の子である三好長慶が義維(義冬)を擁して、義晴の後継者である足利義輝と対立しながらも遂に義輝から義維(義冬)への将軍交代に踏み切れなかった理由としては、京都とその周辺では義晴・義輝父子の権威が依然として認められ続けて、その権威を否定することが困難であったからと考えられている。 その後の義冬及び、その後裔の阿波公方のことは、それらの項目に譲る。
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