洛中洛外図
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洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵である。2点が国宝、5点が重要文化財に指定される(2016年現在)など、文化史的・学術的な価値が高く評価され、美術史や建築史、および都市史や社会史の観点から研究されている。戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて制作された。現存するものの中で良質なものは30から40点とされる[1]。
注釈
- ^ 辻は昭和36年(1961年)の学会発表で「山中常盤物語絵巻」を又兵衛作とする一方、舟木本を又兵衛ではなく彼以前の又兵衛前派の作だと主張、昭和45年(1970年)の著作『奇想の系譜』でもこの見方は変わらなかった。だが平成16年(2004年)の山下裕二との対談、平成18年(2006年)の佐藤康宏との対談で、舟木本が勝以(又兵衛)作との繋がり・連続性が多く見られるとの指摘を受け、舟木本と山中常盤物語絵巻と比較して見た結果、舟木本の左隻第五扇に描かれた口を開けていなないている馬と、山中常盤物語絵巻の巻三に描かれた子供に手綱を引かれて口を開けている馬が似ていることを発見、平成20年(2008年)の著作『岩佐又兵衛』で辻は主張を撤回し舟木本を又兵衛作とした[21][23]。
出典
- ^ 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日
- ^ 小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』(吉川弘文館、2009年)P.3
- ^ 文化庁 国指定文化財等データベース
- ^ 黒田日出男『初期洛中洛外図屏風の伝来論』(立正大学文学部紀要 第27号 2011)P.36-53
- ^ 武田恒夫『狩野派障屏画の研究-和様化をめぐって-』(吉川弘文館、2002)p.104、小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』(吉川弘文館、2009年)P.18-60
- ^ 石田尚豊「洛中洛外図屏風の概観 - 町田家旧蔵本を中心として」『洛中洛外図大観 町田氏旧蔵本』(小学館、1987)収録
- ^ 主題の特定は歴博甲本人物データベース(国立歴史民俗博物館サイト)による。
- ^ 群馬県立博物館・米沢市上杉博物館・林原美術館「三館共同企画展 洛中洛外図屏風に描かれた世界」展覧会カタログ P.100
- ^ 黒田日出男『初期洛中洛外図屏風の伝来論』(立正大学文学部紀要 2011年)P.53-59
- ^ 小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』(吉川弘文館、2009年)P.98-127
- ^ 三好邸に冠木門が描かれていることから(後述)。
- ^ 上杉家の記録から(後述)。
- ^ 黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』(岩波書店、1996年)P138-139、P193-195。小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』(吉川弘文館、2009年)P.132-133
- ^ 今谷明『京都・一五四七年―上杉本洛中洛外図の謎を解く』(平凡社、2003年)
- ^ 黒田『謎解き 洛中洛外図』P189-191
- ^ 小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』吉川弘文館、2009年、133頁。
- ^ 手前右は船鉾、左は岩戸山。以下手前から奥へ鶏鉾、白楽天山、函谷鉾。右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)。(画中の山鉾の特定は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのサイトによる。)
- ^ 小島道裕『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』(吉川弘文館、2009年)P.156-157
- ^ 馬渕美帆 「歴博乙本(洛中洛外図)の筆者・制作年代再考」(科学研究成果報告書『描かれた都市 ー中近世絵画を中心とする比較研究』 2004年)
- ^ 辻惟雄 2008, p. 218-222,229.
- ^ a b 別冊太陽 2017, p. 153.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 14-16,22-25.
- ^ 辻惟雄 2008, p. 222-230.
- ^ 源豊宗 1991, p. 458.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 125-139.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 203-209.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 174-176.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 167-174.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 187-195.
- ^ 黒田日出男 2015, p. 214-234.
- ^ 別冊太陽 2017, p. 114-115.
- ^ 文化庁、国指定文化財等データベース[1]
- ^ メトロポリタン美術館のクレジットラインは以下のとおり:Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015
- ^ 島根県立美術館《洛中洛外図屏風(誓願寺本)》
- ^ “伏見桃山城、活用策決まらず10年”. 京都新聞 (京都新聞社). (2012年10月29日) 2012年11月1日閲覧。
- 1 洛中洛外図とは
- 2 洛中洛外図の概要
- 3 洛中洛外図屏風作品一覧
- 4 その他
- 5 外部リンク
上杉本
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米沢藩藩主の上杉家に伝来したもので、米沢市上杉博物館所蔵。織田信長から上杉謙信に贈られた狩野永徳の作品とされている。1995年に国宝指定。 絵の内容から、景観年代は室町幕府13代将軍足利義輝の時代で、永禄4年(1561年)以降と推定されている。また、絵が完成したのは永禄8年(1565年)9月3日、織田信長から上杉謙信に贈られたのは天正2年(1574年)3月とされている。 上杉本は次のような経緯を経て上杉家に伝来したと推定されている。足利義輝は、上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて贈るため、洛中洛外図を狩野永徳に発注した。しかし、永禄8年5月に義輝が非業の死を遂げた結果、同年9月に完成した絵は永徳の許にとどまった。織田信長が上洛したあとの天正2年、永徳は信長に接近した。洛中洛外図のことを知った信長は、当時同盟を結ぶ必要があった謙信に絵を贈った。
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